2021 帰敬式報告

 

 4月23日に宗泉寺本堂におきまして、2名の方が帰敬式を受式されました。おめでとうございます。

 帰敬式の後に、お二人に帰敬式を受けようと思った動機や受式した感想をお話しいただきました。


S藤さん(法名:釋尼華風)

 80歳になった記念に受式されたそうです。仏教のことを少し知っておきたいという思いもあったとのこと。

 受式しての感想は、仏教は葬儀や法事などの儀式だと思っていたけれど、受けてみて気持ちが引き締まる思いがした。これからどう生きていくか、残りの人生の方向が定まったとお話しされました。 お寺とのつきあいは大変なのかとおもっていたけれど、庶民のためのお寺だと感じたと言って頂き、有り難くも気が引き締まる思いです。


o滝さん(法名:釋尼勝華)

 お連れ合いが亡くなったときに法名をいただく時も慌ただしくなってしまったので、早くに自分の法名をいただいて、軸として生きていこうと思ったとのこと。

 受式しての感想は、人生でいやなこともあったけれど、略肩衣をかけて、決意ができた。南無阿弥陀仏と手を合わせて行けたらと仰っていました。

 お連れ合いのご実家の宗派が大谷派だったそうで、お連れ合いへの思いから選んだそうです。お寺にお参りすると気持ちがすっとするとお話ししてくださいました。  うららかな春の日に、受式後のお二人の笑顔が爽やかで、いい帰敬式をさせていただけたなあと感じています。

2021春 みんなで本を読むー聞法会の報告

コロナ対策として、距離を取って座る、時間を短縮、マスクを付けての参加、お茶タイムはなしで、本を皆さんで読んでいます。感想や疑問を話し合います。


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 法語カレンダーの二月の言葉、「念仏者の人生は まさに 慙愧と歓喜の交錯」についての短い文章を二つ読みました。

慙愧というのは、辞書によると自分の行いを省みて深く恥じることだそうです。

戦争の罪が文章に載っており、「殺人は悪いことだけど状況によって仕方が無い」「現代の殺人は許せない」という意見を聞かせていただきました。

『歎異抄』の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」という、条件によってどんな悪いことでもするのが私だというお話をしました。


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 次回の報恩講の講師をお願いしております瓜生崇先生の著書『溶け合う世界へ』を読みました。

本書は「救われるもの」と「救われないもの」という宗教がつくる境界線によって人間が苦しむという問題を提起しています。

話し合いの中では、宗教団体は悪いことするけれど宗教に差別はないという意見がありました。

人の生きがいについては否定されたら何も楽しくない、納得できないという意見が多かったです。


◆聞法会へのお誘い

 次回も『溶け合う世界へ』の続きを読んでいく予定です。テキストは差し上げますので是非ご参加下さい。

2021永代経御紐解法要と春期彼岸法要勤まる

釋尼光智

三月二十日、宗泉寺本堂にて永代経御紐解法要と春のお彼岸の法要をお勤めしました。

当日は、お参りいただきありがとうございました。お参りくださった方以外にも、御懇志やお供えをお送りいただきました。また電話や手紙で近況をお知らせくださった方もいて、なんとも嬉しく思いました。

法話は練馬区の東京教務所から粟生剛先生に来ていただき「浄土真宗の宗風」のお話をいただきました。

印象に残ったのは、真宗は聞法の道場だから参詣席が広い作りになっているというお話です。

よほど意識しない限り気づかないし、集まりなどで同じ宗派のお寺を訪ねることはあっても、あまり他宗のお寺に行く機会が無いので、とても意外でした。愛知県蒲郡のお寺の住職であり、宗派の職員でもあるという立場から様々な土地のお寺や門徒さんと関わってきた方だからこそのお話なのかなと思いました。

受け継がれてきた特徴を知って大切にしながら、今の時代にあった工夫をしていかないとなあと思った事でした。


法話の要点      

 釋龍源

粟生剛師のお話「真宗の宗風」で印象に残ったことを書きます。

「コロナですごい人出ですね」とインタビューを受けた人も混雑の原因の一つなのに、自分の事は数に入れない。渋滞の時も、なんで外出自粛なのに混んでるんだと怒ってもやはり自分は数に入っていない。いつも自分は正しい立場にいて周りが悪いと思っている。

真宗の教えが伝わって来たのも勤行(おつとめ)があるから、歴史の中で、私も先人が受け継いだものを確かめてゆくことがお勤めの意味だ。

教えを聞く聞法が大切にされてきた。法要をするだけでなく教えを聞いて私自身を見せていただく。「経教はこれを喩(たと)うるに鏡のごとし」教えを鏡として自分自身の事を教えてもらうのが聞法ということ。「物忌み(ものいみ)をしない」も真宗の特徴。日の善し悪しにとらわれない。占いやおまじないを頼りとしない。

真宗の宗風として「勤行・聞法・物忌み知らず」の三つをあげてお話して頂きました。身近なお話が多く、ご参詣の皆様も喜んでおりました。

帰敬式研修  三つのもとどり

 一月十五日に第一回帰敬式の講習会を行いました。

 帰敬式は、昔は「おかみそり」と呼ばれていました。帰敬式を受式する方はご本尊の前で「三帰依文」を唱和します。そして儀式の執行者(住職)から「おかみそり(剃刀)」が三度、頭にあてられます。

 おかみそりは、刃を研いでいない儀式用の物を使います。実際には髪を剃ることはありませんが、髪を剃りおとすことをかたどった儀式です。

 親鸞聖人の伝記をまとめた口伝鈔の中で「勝他・利養・名聞の三つの「もとどり(髪)」をそりすてる」ということが伝えられています。

 浄土宗の開祖、法然上人に弟子入りをした鎮西の聖光房というものがおりました。

 聖光坊は諸国を巡って教えを深め、京都で智慧第一と言われた法然上人のもとに参った時も「法然も、たいしたことのない坊主なら我が弟子にしよう」と思うほど勝ち気な人でした。しかし聖光房は法然上人に感服して弟子となりました。

 その後三年がたったあるとき、聖光房が荷物をまとめて、法然上人の前に現れました。

 「故郷が恋しくなりまして鎮西(九州)に帰りたいと思い、お別れをしたいと思います」といって頭を下げて門から出て行こうとしました。

 法然上人は「おやおや、修行者が“もとどり(髪)”を剃らないで行くとはな」と言いました。

 その声が聖光房の耳に入ると、戻って来て「出家得度(お坊さんになる)して髪を剃り落として久しいのに、髪を剃っていないという言葉を聞きましたが、非常識じゃないですか。聞こえてきた言葉が気になって道を行けません。どういうことかお聞かせいただくために帰ってまいりました」と言いました。

 法然上人はおっしゃいました。「修行者には三つの“もとどり(髪)“があります。勝他・名聞・利養です。

 この三年の間に私が話した教えをノートにまとめて持ち帰るようですね。故郷に帰って人に説き聞かせようとすることは、これは勝他です。勝他とは人に勝ちたい権力が欲しいために教えを利用することです。

 またそれによって立派な学者だと認められたいと思うことは、これは名聞を願うことになります。名聞とは名声欲しさに教えを利用することです。

 これらによって良い暮らしを望むことは、利養のためでしょう。利養とは財力のために教えを利用することです。

 この三つの勝他・名聞・利養の髪を剃らないで、どうして修行者といえるでしょうか。だから聖光房は髪を剃っていないと申しました」

 聖光房は、自分の虚栄心を見抜かれていたことを恥じて、荷物から大切にしまっておいたノートを取り出して、法然上人の前で焼き捨てて出て行きました。(出典『口伝鈔』)

という物語が今でも伝わっております。

 このお話は教えを大切にしている人でさえも名声・財力・権力の魅力を捨てられない心を戒めています。三つのもとどりは自分が欲しているものを表します。 みんなに認められたい、かまって欲しい、私をないがしろにしないで欲しい。

 その心で自分も傷ついて、他人にも害を与えます。その欲望の心を教えていただいて、たよりとする考え方はお釈迦様の教えだとしっかり決めようという機会が帰敬式です。

2021春 聞法会でのお話

 コロナ対策として、距離を取って座る、時間を短縮、マスクを付けての参加、お茶タイムはなしで、住職が前に出て法話をしました。

十二月六日

 お釈迦様が初めての説法でお説きになった悟りへの道、四諦(したい)のお話をしました。四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦です。

 苦諦とは、迷いの人生は苦しみを受けるという真理です。四苦八苦と呼ばれるものです。例えると、この苦しみは病気だったんだという発見です。

 集諦とは苦しみを感じる原因はものごとに執着する心であるという真理です。例えると病気に原因があるという発見です。

 滅諦は、執着する心が無くなれば苦しみが無くなるという真理です。執着する心は煩悩とも言います。例えると病気の原因がなくなれば病気が治るという発見です。

 道諦はどうやったら煩悩が消せるのかという方法です。八正道という生き方をすれば煩悩がおさまってゆくという実践が説かれます。例えると病気を治すために何をすれば良いかという実践です。

 八正道の一つを例にしても絶対に嘘をつかないで正しいことを言う生活は実際には難しいことです。仕事の相手へのお世辞、その場を収めるための言葉を言うことで、その日を生きて行かなければいけないこともあります。

 だからこそ出家して世間の生活を捨てるのが修行者なのです。

 だからこそ厳しい戒律の生活が難しい人も阿弥陀様が助けてくれるよという教えを親鸞聖人がお伝え下さいました。

 仏教の基本の形を知ることで、浄土真宗がどういうものなのかを感じることができたと思います。

2020秋 聞法会でのお話

 現在はコロナ対策として、距離を取って座る、時間を短縮、マスクを付けての参加、お茶タイムはなしで、住職が前に出て話しをする法話をしています。

十月十日 法事とは?

 台風の中数人が来て下さいました。「浄土真宗の法事とは?」というお話をしました。ご法事では読経をしますが、それを何のためにするかという目的の違いについて話しをしました。

 一つは亡くなった方のために読経という善いことをして、お経の功徳の亡き人に向けるという追善回向のご法事が一般的です。 

 二つには亡くなった方をきっかけに、生きている私達がお経を聞かせてもらういうご法事です。

 浄土真宗は二つ目の考え方に基づいてご法事をお勤めしております。本願力回向と言いまして仏様から願いが向けられている法要なんだというお話をしました。

 十一月十八日 末代無智

 報恩講の法話にも取り上げられた『御文』についてお話をしました。親鸞さんのいた鎌倉時代も今の時代も末法の世。「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来すくひましますべし」(たとえ私の罪が深く重くとも、必ず阿弥陀如来は救って下さいます)という一文があるのが末代無知の御文です。一つ一つ意味を考えながら読んでいくと、新鮮に感じます。

今後の開催予定は宗泉寺の行事予定をご覧下さい。

2020報恩講と秋彼岸会が勤まる

 九月二十日、コロナ禍も収まらぬ中でした。法要は申し込み制にして人数制限を設けて距離を取ったり、換気をしながら報恩講のお勤めをしました。

 参詣の方にも、マスクを付けてもらい、入場時の検温などご協力をいただき無事に終了することが出来ました。ありがとうございました。

 昨年の報恩講に引き続いて、柳衛悠平先生に来ていただき、御文の節談説教をしていただきました。

 御文とは本願寺第八代目の蓮如上人という方がお書きになったお手紙です。教えについて、わかりやすく説かれているため浄土真宗では頻繁に読まれている文章です。

 お話いただいたのは末代無知の御文という馴染みの深い御文(お手紙)についてです。

 一座目は「末代」をテーマに、今の時代が末法の世であり、お釈迦様から長い時間を掛けて教えが伝わってきたが、末法の救いは南無阿弥陀仏だけしか成し遂げられないというお話でした。

 二座目は「無智」という事をテーマに、人の知恵と仏の智慧のお話でした。人の知恵には限りがあって自分の都合でしか物事を見ることができない。自分が間違っていたと気づくには、それを正す教えが必要になるというお話をしていただきました。

 病気の流行により、茶話会が開催できず、初めて二座の法話をしていただきましたが、参詣の皆様には喜んでいただいたようです。 今後も状況に合わせて内容を変えながら法要を続けたいと思っております。

疫癘の御文  

 本願寺八代目住職の蓮如上人が書かれたお手紙を御文(御文章)と言います。全国に届けられたお手紙がそれぞれの地域で大切に読まれていました。蓮如上人の孫である圓如が、その手紙を全国から集め、版木で印刷して人々に配られた物が御文と呼ばれる物です。

その御文の四帖目九通に載っているのが疫癘の御文です。

一四九二年の夏に疫癘(流行病・疫病)がはやり七月には元号を改元し疫病を収めようとした様です。「疫病が原因で死ぬのではありません。人は生まれたからは死にます。頼りとなるのは阿弥陀様だけだよ」というお手紙です。

【原文】四-九 疫癘の御文

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。

かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。延徳四年六

【意訳】

 最近、ことに疫病で人が死んでいます。しかし疫病が原因で死んでいるのではありません。(死ぬことは)生まれたからには決まっていることなのです。いまさら大きく驚くことではないでしょう。

 けれど、今の情勢で亡くなると、やはり疫病が原因ではないかと、人は思ってしまいます。これもよくわかります。このようにおびえる人がおりますので阿弥陀如来の仰せの要点は「救い無き時代のただびと、罪の生活をする私たちのような者は、罪はどれだけ深くても、阿弥陀如来を一心に頼む人間を、必ず救うと誓う」とおっしゃってくださいました。

ならば、いよいよ阿弥陀仏を深くお頼みし、極楽に往生させてくださいと深く思いましょう。一筋に一心に阿弥陀を尊び、疑う心は微塵ももつべきではありません。

 そのように心得たなら、寝ても覚めても「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申すことは、たやすく助けてくださる、有り難さ嬉しさを表すお礼の心です。これを言うなれば仏様の御恩に報いてお礼を言葉にする念仏と申し上げるのです。かしこ

ご法事の延期について  

 結論から言えば、延期していただいて大丈夫です。

 コロナウイルスの感染拡大予防のため、神奈川県でも緊急事態宣言が出されるなど、この先がわからない状況が続いています。

 そうした中で「ご法事を延期したいけれど大丈夫?」という相談が寄せられる様になりました。

 年回表や四十九日の予定は、ひとつのめやすと考えて下さい。予定の日よりも先に勤めようが後に勤めようが、亡くなった方を思い、教えを聞く時間の尊さに違いは無いと考えます。

 コロナウィルスが終息した後、予定を立てて御連絡いただいても、ご法事を受付します。数ヶ月や一年後に延期していただいても大丈夫です。 お寺へのご法事申し込みがお済みの方で、延期したい、中止したいと言う方も御連絡いただければ対応いたします。お電話下さい。

 ※ 追記

 法要の延期をしてもよいのかと悩む方がいる一方で、法要をしてもらえるのですか?というご相談も寄せられています。

 宗泉寺では本堂を使用しての法要、会場やご自宅へ伺っての法要を継続しています。ご相談下さい。

 今は営業を自粛している会場やお店が多いから、ご心配されているのだと思います。遠方のご親戚が来られない、小さなお子さんやご高齢の方は心配なので出られない、など普段より規模を小さく勤められる方が多いようです。

 お寺の本堂での法事が終わった後に、御本尊の前で集合写真を撮る方もいます。今は気軽にメール等で写真も送れるので、来るのが難しい方に見せるのもいいと思います。

 法事を延期するのもしないのも、ご家族で相談していただいて、それぞれに、やりやすいように勤めていただくのがよいと思います。

 お寺の方としては、僧侶もマスクを着用、手の消毒液を用意する、本堂のイスの間隔を開け、窓を開けて換気をしながらご法事を勤めるなどの工夫をしています。

 熱がある、体調が良くないという方にはお参りを遠慮していただく、マスクを着用していただくなど、しばらくはお参りの方にもご配慮をお願いいたします。