新盆合同法要・盂蘭盆会合同法要勤まる

 7月6日には新盆合同法要を、8月3日には盂蘭盆会合同法要を宗泉寺本堂に於いてお勤めしました。両日とも当日は猛暑でしたが、無事にお勤めすることができました。

新盆合同法要の法話の要約

 本日はこの一年の間に亡くなられた大切な方をご縁として、初めてのお盆を迎える皆さまと共に、お盆の法要をお勤めすることができました。

 今年も、幼いお子さまから100歳を超える方まで、多くのご葬儀に立ちあわせていただきました。その中で、多くの別れや悲しみのお姿に出遇ってまいりました。

 仏教では、お釈迦さまが説かれた「四苦八苦」という教えがあります。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、この4つの苦しみに加えて、「愛別離苦」愛する人と別れなければならない苦しみがあります。これこそが人にとって最も辛く悲しいものだと、お釈迦さまはお説きになられました。大切な方とも、いつかは別れが訪れる。そのことを胸に、今共に生きている時間を大切にしていきましょう、というのが仏教の教えです。

 さて、この盂蘭盆会は『盂蘭盆経』というお経に基づいた法要です。昔、お釈迦さまの弟子である目連尊者は神通力を得て、亡くなった母を救おうとしました。しかし母は餓鬼道という苦しみの世界に落ちており、食べ物を与えても炎となって消えてしまい、助けることができませんでした。困り果てた目連尊者はお釈迦さまに相談しました。するとお釈迦さまは、「7月15日、修行を終えた僧たちに食べ物を供養しなさい。その喜びを分かち合うことで、あなたのお母さんも救われるでしょう」と教えられました。目連尊者がその教えの通りにしたところ、母は餓鬼道から救われ、天人の世界に生まれ変わることができたそうです。

 このお経のように、みんなで喜びを分かち合い、助け合うことが大乗仏教の教えです。「私だけが救われればよい」「あの人だけが救われればよい」というのではなく、共に支え合い、共に救われていこうというのが大乗仏教の精神です。

 また、本日皆さんと読誦した『阿弥陀経』の中に「祇樹給孤独園」(ぎじゅぎっこどくおん)と出てきました。その『阿弥陀経』が説かれた場所が祇樹給孤独園です。祇樹は祇陀 (ジェータ) 王子の林、給孤独は孤独な人に施しをした須達 (スダッタ) 長者のことです。

 ジェータ王子とお金持ちのスダッタ長者という2人の人物によってつくられた精舎であり、祇園精舎として有名な場所です。京都の祇園の名の由来も、この祇園精舎にあると伝えられています。

 スダッタはお釈迦様の教えを聞くための場所を作りたいのでジェータ王子の素晴らしい林を売って欲しいとお願いしますが、王子はスダッタの持っている金貨を敷き詰められた分だけの土地を、その金貨で売ってあげようと言います。スダッタは持っていた金貨ばかりか家財産も自分の服をも売って裸で金貨を敷き詰めたそうです。それを見た王子は心を動かされ、お釈迦様のお話を自分も一緒に聞きたいと思い土地を寄進したそうです。ここにも「分かち合い」「支え合い」の精神が示されています。

 本日の新盆法要は、故人を偲ぶとともに、そのご縁を通じて仏さまの教えを聞き、互いに励まし合い、支え合って生きることをあらためて思い起こす機会です。どうぞこのご縁を大切にしていただければと願っております。


盂蘭盆会合同法要の法話の要約

 先日、ロシアで大きな地震があり、日本でも津波警報が出されました。東日本大震災を思い出し、「備蓄はあったかな」と振り返ったり、東海道線が止まって帰れなくなった方もいらしたことと思います。けれど日常に戻ると、そうした出来事もつい忘れてしまい、また一生懸命に仕事や生活へと戻っていくしかない。そんな中で、私たちの歴史をたどろうということで、亡くなった方のことを思い返し、また私たちの父母、祖父母たちが歩んできた道のりをもう一度思い出そうということで、このような法要をお務めをするわけです。

 今年は「戦後80年」の節目の年です。戦争を振り返る番組や、ジブリのアニメ映画『火垂るの墓』も久しぶりに放送され、戦争について改めて考える機会も多くあることでしょう。一方で、この前の選挙では、外国人を差別し再び戦争をしようとするような党が票をのばすといったこともありました。人間はどうしても「自分が大事、家族が大事、この国が大事」と、自分を中心にしてしまいます。そうしてよその国に攻め込み奪って80年前の大きな戦争を経験したわけですが、なかなか周りの人と気持ちを分かち合って生きていこうということができないのが私たち人間の心です。

 800年前の親鸞聖人の時代もまた、戦や飢饉がありました。今日食べる食べ物もなく、亡くなる人が多くいました。現代でも、米の不足や物価の高騰など、飢えている人もいます。戦国の世も戦争の時代も、他から奪ってでも蹴落としても生きようとするのがこれまでの歴史です。それでも人は一人では生きられません。互いに気遣い合い、支え合って生きていくしかないのです。

 けれども、私たちの心は欲望によって容易に暴走してしまいます。

 「私の体」「私の家」「私の土地」「私の国」そうして広がっていく「私」の欲望です。けれどもお釈迦様はその根本である「私」というものはどこにもないんだということをお説きになりました。それが仏教の教えです。どこを切っても私というものはありませんよということを発見したのがお釈迦様です。体や心を分けて見ていけば“本当の私”という実体は存在しないのに、そこに『私のもの』と執着する思い込みが苦しみの原因になっているのです。

 その私のものという考え方がすでに間違っているんだよ、私たちは縁によって不思議なことにこうして命があって今日生きている。みんなそういう命を、お互い最高の命を生きているんだよということを説いたのが仏教の教えです。この人がご飯を食べる人でこの人は作る人、そういうような世界は成り立たないでしょうということを解いたのが、お釈迦様の教えです。お互いの役割や違いを認め合い、「お互いさま」と支え合って生きることが仏教の教えです。

 これからも、心静かに手を合わせる時間を作りながら、悩み苦しみばかりの人生ではございますが、どうやって生きたらいいのかなと先立って行かれたお連れ合い様、お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ご兄弟、子どもさん、「今、生きていたらどんな風に私のこと見ているかな」と想像をしながらこのお盆をお過ごしいただけたらと願っております。

2025-09-01 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : stan