
10月6日に報恩講法要をお勤めいたしました。講師として瓜生先生をお招きしました。お天気も良く、お参りくださった方たちとお勤めすることができました。先生のお話を要約して掲載いたします。
今回は親鸞聖人の師匠である法然上人についてのお話をしていただきました。法然上人がお生まれになったのは1133年で、ちょうど貴族の社会から武家の社会に移っていく変動の時代でした。
法然上人は幼い頃から聡明な子供でした。お父様である漆間時国は、岡山県美作国の領主で、貴族の土地を守り年貢を回収する仕事をしていました。後の武士となるような仕事です。そのお父様は近隣の武力集団から狙われ、ある時襲撃されてしまいます。幼少の法然上人は乳母に助けられて逃げ延びましたが、しばらくして屋敷に戻ると、お父様は傷を受けて瀕死の状態でした。遺言としてお父様から「恨みを持って恨みを返すな。出家して私の菩提を弔ってくれ」と言われ、13歳でお坊さんになることを決意しました。

近くの寺に出家しましたが、才能を認められ、より大きな寺院に預けられることになります。その時、上人の師匠から「文殊菩薩の像一体をお預けします」という手紙を預けられ、大きな寺院に参ったそうです。そこでも才能を認められ、比叡山に行くことになります。比叡山は当時、日本最高の仏教の勉強ができる場所でした。
世界的に見ても、インドや中国、韓国と仏教は伝えられていましたが、インドではイスラム教による征服で仏教はなくなり、中国では武帝による政策でお寺を廃絶し、僧侶は還俗させられました。韓国でも政治不安で仏教の勉強をしている場合ではなくなっていた時代でした。そういった事情から、法然上人が仏教の勉強と修行に励んだ比叡山は、当時世界一とも言える場所とい言えます。

法然上人は大変頭のいい方で、最も難しいと言われる経典も三回読めば覚えることができ、五回読めばお経の内容を全て理解することができたそうです。そして、八万四千巻と言われるお釈迦様の教えの中で、日本に伝わっていた五千巻という膨大な経典を全て暗記したということです。
法事で読む阿弥陀経よりも、もっとずっと長いお経もたくさんあります。法華経や華厳経のような何十巻、何百巻とあるお経があります。そのお経を全て読み、理解できるような才能を持った方でした。
ですが、比叡山の生活の中で、法然上人は僧侶の人々の中で一人だけ貴族ではない、低い身分から出てきた才能で上り詰めた人物だったため、後ろ盾がありませんでした。おそらく、いじめられたことでしょう。法然上人は、十代後半を比叡山の奥にある黒谷と言われる場所に引きこもって修行に専念していきます。
そこでは念仏を中心とする修行をしていました。念仏と言っても、仏様のお名前を呼ぶのではなく、仏様を念ずる修行をする場所でした。仏を念ずる、お釈迦様のことを念ずる修行というのは、止観業と言いまして、止というのは心をとどめる、観というのは観察する、イメージする修行で、心をより動かさずに極楽浄土をイメージして仏様に出会い、悟りを開こうという修行の仕方です。
その修行を続ける中で、法然上人は別の方法があるのではないかと二〇代では奈良の南都六宗と言われる寺院にも出て教えを請います。どうすれば悟りを開くことができますかと色々な宗派のもとに行って教えを聞くわけですが、なかなか悟りが開けるような教えに出会えません。経典でも難しく、修行を続けるのが難しいということで、法然上人は一生懸命勉強を続け、戒律を守り、修行を続けるわけですが、その中で善導大師という中国の方の称名念仏という、仏様のお名前を呼ぶという念仏の方法に行き当たります。
仏様のお名前を呼ぶという修行の方法は昔から比叡山でも説かれているわけですが、非常に簡単な修行なため、他の難しいことができない、どうしようもないものがやる最後のやり方だと考えられていました。善導大師の「順彼仏願故」(かの仏の願に順ずるが故に❘念仏は阿弥陀仏が願った方法です)という一文を読んで、法然上人は経蔵の中で大きな声で泣いたと言われております。

20年の歳月をかけて、誰もが救われるという教えにやっと出会うことができたのです。普通は、優れた人が救われる教えこそが正しい教えであると考えるわけですが、そうではなく誰もが救われる教えこそが正しい教えなのだと法然上人は悟ります。それが浄土宗の立教開宗の時だと浄土宗では考えられています。それから950年という時間が経ったのが今年になります。そういうこともあり、「法然と極楽浄土」という展示も行われています。
その法然上人の40歳下に親鸞聖人がいたわけです。親鸞聖人が29歳で法然上人に出会った時は、法然上人が69歳となっていました。その時、法然上人は円山公園の辺りの吉水と言われる場所に仏様の教えを聞ける場所を作って念仏を広めていました。後にそれが浄土宗となっていくわけです。

ですが、当時の常識としては普通ではなかった法然上人の教団は既存の仏教に非常に弾圧され、何度も何度も念仏停止の法律が作られたり都から追い出されたりします。後には承元の法難というものがあり、親鸞聖人は越後に流され、法然上人は土佐の国に流されるという判決が出て刑が執行されます。
実際には法然上人は讃岐まで行ってそこでとどめ置かれるのですが、後に罪を許されて京都に帰っていきます。しかし、その時はもう八〇歳になっており、京都に入るとまもなく亡くなってしまいます。
法然上人がなくなった後も念仏者への弾圧は続いて、一二二七年の十三回忌の時には墓を暴かれ遺骨を焼かれるということが起こってしまいます。しかし、法然上人の骨は別の場所に安置され、無事でした。しかし、選択本願念仏集の板木は焼かれてしまいます。
法然上人の求道の歩みと、親鸞聖人の自分で悟りを開けない私が救われる道は何だろうかという悩みをへて、お二人が発見してくださった浄土の教えが、今、私の聞いている浄土真宗の教えとなるわけです。
瓜生先生は様々なお弟子さんの生き方や親鸞聖人の悩みを分かりやすくお話しくださいました。
2025年3月の永代経にも瓜生先生にお越しいただきますので、よろしければご参拝ください。