10月1日に宗泉寺の報恩講が勤修されました。
瓜生崇先生の法話「親鸞聖人の時代におきた出来事」の要約です。
大河ドラマで鎌倉殿の13人が放映されていますが、親鸞聖人が生まれた頃はちょうどその頃。平安時代末期の平家が台頭し政権を自由にしていた頃です。その後、各地方の治安維持のために公家が雇っていた武士が力を強め、権力をもった武士集団の源氏が平家を倒し鎌倉幕府を建てた激動の時代でした。戦争も度々起こり、飢饉や地震も起きた、生きていくだけでも難しい時代でした。
1173年に貴族の家系に生まれた親鸞聖人は九歳で比叡山に登り出家したといわれています。その後20年間、当時最高の学問機関でもあった比叡山で修行をします。自身の体と心を整えて勉学にはげむ日々でしたが、悩み多き青年は京都の町の中にある六角堂に通って夢告を求めます。夢告とは夢に神仏が出てきて導いて下さるという文化です。当時の人は夢のお告げを大切にしていました。六角堂は夢のお告げをいただける寺として人気の場所でした。95日かよって夢告を受けます。
六角堂の救世菩薩が告げます。
行者宿報にて
たとい女犯すとも、我玉女の
身となりて犯せられん。
一生の間 能く荘厳して
臨終に引導して 極楽に
生ぜしむ
〈訳:あなた(親鸞)が因縁によって、たとえ異性と交わったとしても、私(菩薩)は宝のような体となって犯されましょう。一生の間よく私(菩薩)があなたの人生を尊いものにして、命終わるときには導いて極楽に連れて行きましょう〉
という夢のお告げをいただきました。女犯偈(にょぼんげ)ともいわれる詩として伝えられています。
毎年、本山では親鸞聖人の祥月命日の法要である報恩講で拝読されています。
性のことは避けてお話する方も多いですが、瓜生先生は触れて下さいました。講話の一部です。
この文を見ると親鸞さんはスケベな坊主に見えます。
ですが大切なところは宿報というところ。どうにもならないこと。自分の人生が思い通りにいかないことです。
生まれた場所も、生活する場所も選べない、両親も選べない、時代も選べない、なにも思い通りにならない。自分の意思で生きているようだけれど、選べる中で選択してきたということがあります。
お釈迦様は心、五蘊(見る聞く、感覚、考えや行い)は無我であるといいます。心も自分の思い通りにならない。悲しみたいと思って悲しんでいる訳ではない。身も心も流されるように生きている私達です。
親鸞聖人も男に生まれたくて生まれたわけでもない。男性として生まれて女性と交わりたいと思うのも宿報でしょう。
『歎異抄』に弟子の唯円との対話が書かれています。
親鸞が「唯円よ、師匠の私を信じるか?」「はい、信じます」。親鸞は「それでは今から千人殺してこい、そうすれば浄土往生間違いない、できるか?」と言われた。唯円は「一人殺すことも難しいと思います」と断ると親鸞は「俺を信じるって言ったよね。信じていたって出来ないことあるよね。殺す気がなくても殺してしまうこともある。私たちがやっていることは毛先の程度のことでも宿報によらないということはないんだ」と
さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし。
『歎異抄』
私(親鸞)もどうにもならない状況になったら、何をしでかすかわからないのが私だと言われました。
仏教では「殺すな、殺さしむなかれ」といいますが、平和な日本だからそんなこと言ってられる。ウクライナに生まれたら招集がかかって家族のために銃を持つこともあるでしょう。敵が来て殺されるとなったら引き金を引くと思います。
バスの置き去り事件も小さい子供が亡くなりましたが、施設の人も殺そうと思って働いていた訳ではないでしょう。
私たちは思うようにならないところを生きている。男に生まれたら女性のことで欲望を持ち、女性ならば比叡山に登ることもできない。どうにもならないことを引きずって生きているものに、どうにかなれということが仏の救いだったならば、これは本当に人が救われる道なのかなと親鸞聖人は思ったのではないでしょうか。
親鸞聖人は女性と交わりたくて比叡山を下りたという説もあるが、そんな話ではなく、人はどうにもならないものを抱えて生きているのだと、どうにもならないものがどうにかなれと仏様がいうだろうか、これが親鸞聖人の見た夢の内容です。
瓜生先生の講義の心に残った所です。女犯偈は「女を犯す」という表現が使われるあつかいが難しい詩ですが浄土真宗では大切にされてきました。
家族や病気など様々な悩みを聞かせていただくと、どうにかならないかなあと思います。どうにもならない心と体を持った私がどうやったら救われるかという問題に悩まれた親鸞聖人のお話でした。1時間半の法話の30分ほどの部分です。法話の全部は動画で視聴できますのでご覧下さい。