蓮如上人と大津  釋龍源著

  堅田正福寺展

 滋賀県大津市の歴史博物館で開催されていた堅田本福寺展を見に行ってきました。

 大津市の堅田本福寺の寺宝物を色々拝見しました。親鸞聖人の自筆の名号(御本尊)、蓮如上人からのお手紙、 また各時代の領主や武家のお手紙など、本当に丁寧に保存してありました。何度か火災もあったようですが、八百年間の資料を一つのお寺とその門徒衆で守っていることが立派だと思いました。

 手紙一通でも封筒から保管し、寺族の法名を本山からもらった紙など三百年前の法名の書式が見ることができました。本山に任せておけば安泰だと考えない方法によって、今でも正しい資料を見ることができるのは素晴らしい姿勢だと感じました。


大津三井寺

 京都駅からJRで大津駅へ行き、江若バスで琵琶湖畔へ行きました。久しぶりに見る琵琶湖は雄大なものでした。そこから歩いて十五分ほどの通称三井寺、園城寺にお参りに行きました。

 三井寺は天皇家ゆかりのお寺で比叡山と並ぶ権力を持っていたそうです。そのこともあり比叡山と敵対することも何度かあったようです。

 境内には鉄鼠という妖怪の看板がありました。昔三井寺に頼豪という高僧がおり、三井寺に戒壇(戒律を与えることができる施設)を作りたいと調停にお願いしたところ、比叡山からの反対で断られたので、激怒し比叡山に呪いをかけて大量のネズミを送り込んで復讐をしたというお話。それが鉄鼠というネズミの妖怪のもとになったそうです 。

 また、武蔵坊弁慶が放り投げてひびを入れたという鐘も見られました。弁慶が争っていた三井寺の釣鐘を奪って比叡山まで持って行ったところ、鐘は「いのういのう」(関西弁で帰ろうという意味)と鳴ったそうです。そこで、弁慶が怒って谷へ放り投げヒビが入ったそうです。

 どちらも比叡山と不仲だったことがよくわかる伝説だと思いました。

 ですから、比叡山からにらまれていた本願寺、蓮如上人と三井寺は関わりがあったのでしょう。


  蓮如上人と活躍した時代

 蓮如上人(一四一五―一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれました。本願寺は浄土真宗の開祖、親鸞聖人のお墓(御廟所)でもありました。当時の本願寺は小さな寺で天台宗の末寺でした。親鸞聖人が亡くなって百数十年が経ち、聖人の弟子たちが説く教えは盛んになっていましたが、子孫が運営する本願寺へお参りする人は少なく、本願寺はさびれていたようです。蓮如上人の母親は寺の下働きをする女性であったともいわれております。

 蓮如上人は代々受け継がれてきた親鸞聖人の教えを学び、分かりやすいように布教をし、四十二歳で第八世の本願寺の住職となります。

 蓮如上人の布教の工夫として有名なものは、今では門徒には親しみ深い正信偈をみんなで唱えることをはじめたり、色んな人にむけて教えをわかりやすい言葉で書いたお手紙(御文)を送りました。

 字を読めない人、土地を持たない人、職人、商人など人口の大半であった社会の下層に属する人々の支持をえて、本願寺はどんどんと信者が増えていきます。時代は南北朝時代の終わり、朝廷が支配していた荘園制度が保てなくなってきており、大きな荘園を持ち、貴族に支えられたお寺も大きな影響を受けると考えられたことでしょう。


  本願寺破却と三井寺

 そんな仏教界の変化に危機感を抱いた比叡山延暦寺は、比叡山のふもとである琵琶湖西側への布教を止めるように命令を出し、また大繁盛の本願寺へ度々の献金請求をします。

 蓮如上人は比叡山からの度重なる請求に命の危機を感じ、本願寺から親鸞聖人の著書や、寺の中心となっていた親鸞聖人像(御真影)を運んで逃げ出します。その後、寛正六年(一四六五)に比叡山は本願寺を焼き討ちします。寛正の法難といわれる事件です。

 京都の東大谷から敗走した蓮如上人は南近江を中心に各地を転々とします。

 本願寺を打ち壊され、命からがら運んだ御真影を安全に守ることはできないか考えた蓮如上人は、当時比叡山と険悪であり力もあった三井寺を頼ることとなります。

 蓮如上人は本願寺再興まで御真影を預かって欲しいと三井寺へ懇願して、布教と安全な場所を探しての旅に出ます。それまでに親鸞聖人像は金森や堅田などに移された後、文明元年(一四六九)に三井寺の南別所に安置されました。

 三井寺では寺領の一部をさいて御真影を安置します。御真影には近江近郊から多くの人が参ったようです。その場所は今の近松別院(大津市、本願寺派)がある場所です。


  堅田本福寺と浄土真宗

 そののち蓮如上人は北に向かい、堅田にある本福寺住職の法住にかくまわれます。堅田は琵琶湖の西部にあり、琵琶湖のヒョウタン形のくびれに位置する場所です。湖上交通の拠点として発展し、運送業や漁業で賑わう町でした。

 町には平安時代に比叡山の恵心僧都源信が湖上に浮御堂(満月寺)という仏閣があります。

 源信僧都は浄土真宗の七高僧の一人で地獄と極楽のことを著した『往生要集』の著者です。ですから古くから南無阿弥陀仏を大切にする土地柄でした。

 本福寺住職の法住は、熱心な信者に支えられ、漁師や小作人などの苦しい生活をする人たちに教えを説いていました。そこに蓮如上人も加わって「南無阿弥陀仏」と念仏すれば救われると教えを広めました。

 しかし、応仁二年(一四六八)に、再び比叡山に大規模な攻撃をされ町に火がかけられます。堅田大責といわれます。これは蓮如上人のせいだけでなく、比叡山の領地であった堅田が、比叡山への物資に通行税を取り始めるなど勝手な行いを始めたためであったともいわれています。当時の権力の抑えが効かなくなくなっていたことがうかがえます。

 蓮如上人は五十七歳になっていましたが身一つで命がけの旅を再開します。

 その旅で蓮如上人は北陸での教化に力を注がれました。福井の吉崎に立派な本堂が建てられ、多くの人がお参りするようになり、町自体も大変栄えたそうです。

 しかしながら、大きなお金や権力が集まるようになると内部分裂や武力を持つ門徒集団の争いが起こるようになったそうです。

 後に加賀の一向一揆が起こるなど、北陸は現在に至るまで浄土真宗門徒の多い土地として有名なことから影響の大きさがうかがえます。

蓮如上人は六十四歳で北陸でのお仕事を終え、京都に山科本願寺を建てられます。


  堅田の源兵衛の首

 文明十二年(一四八〇)山科に念願の本願寺本堂が完成します。そこで十五年のあいだ三井寺に守ってもらっていた御真影返してもらいにいくことになります。

 ここで「かたた源兵衛の首」の伝説がでてきます。蓮如上人は三井寺に親鸞聖人像の返還を願います。すると三井寺は突然の大教団になった本願寺への妬みもあったのでしょうか、それはできないと返答します。

 お金ではなく人間の首を二つ持ってくれば返そう、それだけの価値はあると要求します。蓮如上人は困り果てて門信徒に相談します。

それを聞いた家族そろっての熱心な信徒であった堅田の漁師源右衛門は、息子の源兵衛の首切り取り三井寺に持参します。首を持った源右衛門は三井寺の住職に息子の首を持ってきました。

 もう一つは自分の首を差し出しますから、どうか親鸞聖人の像を返して下さいと懇願します。三井寺はまさか約束を守られると思っていなかったので慌てて御真影を源右衛門に返すことになります。

 そのような殉教者によって親鸞聖人像が本願寺へ帰ってきたという伝説が残っております。現代の感覚では木像と人間が釣り合う訳がないと思えますが、人権も自由もない時代に命を捨てる選択で親鸞聖人を守れることが何よりの名誉だったのでしょう。この「かたた源兵衛の首」は大津市の等正寺の他、数ケ寺の真宗寺院にあるそうです。

 一方、三井寺側の説によると、三井寺は御真影と蓮如上人を焼き討ちから手厚く庇護し、蓮如上人がお礼として手作りの親鸞聖人像を奉納したそうです。現在も三井寺の観音堂にその像がおかざりされています。


  山科本願寺が完成

 本願寺が焼けてからの間、蓮如上人は南近江や三河門徒の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどして比叡山と和解しました。

 やっとの思いで、京都の山科に本願寺を建てて親鸞聖人像を迎えることができました。親鸞聖人が今生きて説法されているように感じる場所として多くの人で賑わう大寺院となりました。

 本願寺は、大きな堀と壁を持つ城のような城塞都市を作ったのです。いまでも東西本願寺に堀と壁があるのはその寺内町の作りをしているといわれます。

 蓮如上人は、住職を九代目実如に譲った後も精力的に活動し、南無阿弥陀仏の六字名号の本尊とお手紙(御文)を全国に配り、教えを広めてゆきました。

 そして八十二歳で大阪に大阪御坊(のちの石山本願寺)を建立して、山科本願寺で八十五歳の生涯を終えます。

 大津市に行ったことで思い出した話や、聞いていたことを書かせていただきました。小さな本願寺を全国に寺内町をもつ大教団に発展させた蓮如上人は、多くの近江の人々に守られ船で琵琶湖を渡り、各地で布教をして命を狙われながらの生活を滋賀県でしていました。

 魚を釣り、畑を耕し、日々の生活に追われる人々が救いを求めたのは南無阿弥陀仏の教えでした。難しい修行も、学問もいらない。ただ救われることを信じればいいという蓮如上人の教えが戦国時代に移りゆく時代の光となったのです。


  御影道中(ごえいどうちゅう)

 現在でも毎年蓮如上人の御命日三月二十五日の法要を本山で終えると、蓮如上人の御苦労を偲んで、京都東本願寺を四月十七日に出発する蓮如上人御影道中という行事が三百年前より行われています。

 リアカーに紐をつけて蓮如上人の絵像を乗せて片道二百四十キロ徒歩で吉崎御坊に行くという行事です。

 御下向という吉崎に向かう移動は、山科から琵琶湖の東側を通ります。大津、堅田を通って福井に一週間かけて進みます。途中には蓮如上人に立ち寄ってもらいたいという場所に絵像をお迎えして、そこで法話があります。

 そして福井県吉崎で一週間のご命日の法要を終えた後は、また一週間かけて京都に帰ります。御上洛という京都の東本願寺に帰る道は琵琶湖の西側、長浜や彦根を通ります。

 車輪が使えない場所は背中に絵像を担いで登る蓮如上人のご苦労を偲び、一緒に旅をする法要が今も行われています。