2023 報恩講・秋の彼岸法要勤まる

 9月24日、宗泉寺本堂にて、お集まりいただいた皆さんとお勤めしました。

 講師には滋賀県から瓜生崇先生に来ていただきました。お話は、親鸞聖人はどんな時代に生まれた何をした方なのかというお話しと、どのように京都で浄土の教えを説いていた法然上人に出会ったのか等、当時の時代背景なども交えてお話いただきました。

 因縁についての質問をしました。仏様からみれば過去から未来の因縁を全て見通してどうすれば、この人が覚りを得ることができるか見通すことができる。だが、仏でない人が因縁の教えを利用して、過去世に悪いことをしたと驚かすことは仏教ではないと教えて下さいました。

2023冬 仏具を綺麗に―おみがき報告

 9月17日にお寺の客殿に集まって仏具のお磨きをしました。ピカピカになった仏具をお互いで褒め合いました。ありがとうございました。

2023-12-31 | カテゴリー : 行事報告 | 投稿者 : stan

2023冬 お寺デ健康体操報告

 おみがきの後で体操をしました。虚弱防止のための簡単な運動です。お寺に来られる人は元気な方ばかりで楽々運動していました。座りながらできる体操を習いました。お気軽にご参加下さい。

2023-12-31 | カテゴリー : 行事報告 | 投稿者 : stan

2023冬 境内を綺麗に―草むしり報告

 今年は暑い日が続きました。草むしりや植木の剪定をしていただき、ありがとうございました。お寺に来る方達をさっぱりした庭でお迎えすることができました。

 来年も三月になりましたら、作業を始めますのでお手伝いいただけますと助かります。

2023-12-31 | カテゴリー : 行事報告 | 投稿者 : stan

2023冬 みんなで本を読むー聞法会の報告

 ここ数年は法語カレンダーの解説書『今日の言葉(大谷派)』と『こころに響くことば(本願寺派)』を読んで同じ法語をどう受け取っているかを読み比べています。


◇10月20日(金)

 前半は住職の『正信偈』のお話しです。本願名号正定業~必至滅度願成就のお話です。第十八願の至心信楽の願について聞きました。

 阿弥陀様が南無阿弥陀仏と称えて欲しい、名前を呼んで欲しいと願って下さっている。だから、私たちが南無阿弥陀仏と称えることができますというお話でした。

  十月の法語

念仏というのは 私に現れた 仏の行い   坂東 性純

 親鸞聖人の750回御遠忌法要のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」という表現について話し合いました。法然上人のお弟子の耳四郎という元大盗賊のお話も印象的でした。大盗賊も阿弥陀様は救うというお話です。テーマも耳四郎も、主語は私ではなく阿弥陀様からの呼びかけが中心にあるということなのかなと思いました。


◇11月29日(水)

 前半は住職の『正信偈』についてのお話を聞きました。前回までの振り返りも交えつつ、内容を解説していきます。如来所以興出世~応信如来如実言のお話です。

 お釈迦様が覚りについて人々に説くことがこの世界に生まれた本来の目的である、という出世本懐のお話。また、浄土真宗の大切にしている『大無量寿経』について少しふれました。親鸞聖人がお釈迦様のお弟子の中で覚ることができなかった阿難尊者に語りかけるお経を大事にしているという意味についてお話しました。

11月の法語

生の依りどころを与え 死の帰するところを 与えていくのが 南無阿弥陀仏   金子 大榮

 自力でなく、阿弥陀様におまかせして救っていただくということ。欲望を反映したいいところという浄土にいくということではない事などについて読みました。

 若い世代にどうやって伝えていくのかなど、宗教二世の話も出たりと色々話し合いました。

 皆様のご参加お待ちしています。

蓮如上人と大津  釋龍源著

  堅田正福寺展

 滋賀県大津市の歴史博物館で開催されていた堅田本福寺展を見に行ってきました。

 大津市の堅田本福寺の寺宝物を色々拝見しました。親鸞聖人の自筆の名号(御本尊)、蓮如上人からのお手紙、 また各時代の領主や武家のお手紙など、本当に丁寧に保存してありました。何度か火災もあったようですが、八百年間の資料を一つのお寺とその門徒衆で守っていることが立派だと思いました。

 手紙一通でも封筒から保管し、寺族の法名を本山からもらった紙など三百年前の法名の書式が見ることができました。本山に任せておけば安泰だと考えない方法によって、今でも正しい資料を見ることができるのは素晴らしい姿勢だと感じました。


大津三井寺

 京都駅からJRで大津駅へ行き、江若バスで琵琶湖畔へ行きました。久しぶりに見る琵琶湖は雄大なものでした。そこから歩いて十五分ほどの通称三井寺、園城寺にお参りに行きました。

 三井寺は天皇家ゆかりのお寺で比叡山と並ぶ権力を持っていたそうです。そのこともあり比叡山と敵対することも何度かあったようです。

 境内には鉄鼠という妖怪の看板がありました。昔三井寺に頼豪という高僧がおり、三井寺に戒壇(戒律を与えることができる施設)を作りたいと調停にお願いしたところ、比叡山からの反対で断られたので、激怒し比叡山に呪いをかけて大量のネズミを送り込んで復讐をしたというお話。それが鉄鼠というネズミの妖怪のもとになったそうです 。

 また、武蔵坊弁慶が放り投げてひびを入れたという鐘も見られました。弁慶が争っていた三井寺の釣鐘を奪って比叡山まで持って行ったところ、鐘は「いのういのう」(関西弁で帰ろうという意味)と鳴ったそうです。そこで、弁慶が怒って谷へ放り投げヒビが入ったそうです。

 どちらも比叡山と不仲だったことがよくわかる伝説だと思いました。

 ですから、比叡山からにらまれていた本願寺、蓮如上人と三井寺は関わりがあったのでしょう。


  蓮如上人と活躍した時代

 蓮如上人(一四一五―一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれました。本願寺は浄土真宗の開祖、親鸞聖人のお墓(御廟所)でもありました。当時の本願寺は小さな寺で天台宗の末寺でした。親鸞聖人が亡くなって百数十年が経ち、聖人の弟子たちが説く教えは盛んになっていましたが、子孫が運営する本願寺へお参りする人は少なく、本願寺はさびれていたようです。蓮如上人の母親は寺の下働きをする女性であったともいわれております。

 蓮如上人は代々受け継がれてきた親鸞聖人の教えを学び、分かりやすいように布教をし、四十二歳で第八世の本願寺の住職となります。

 蓮如上人の布教の工夫として有名なものは、今では門徒には親しみ深い正信偈をみんなで唱えることをはじめたり、色んな人にむけて教えをわかりやすい言葉で書いたお手紙(御文)を送りました。

 字を読めない人、土地を持たない人、職人、商人など人口の大半であった社会の下層に属する人々の支持をえて、本願寺はどんどんと信者が増えていきます。時代は南北朝時代の終わり、朝廷が支配していた荘園制度が保てなくなってきており、大きな荘園を持ち、貴族に支えられたお寺も大きな影響を受けると考えられたことでしょう。


  本願寺破却と三井寺

 そんな仏教界の変化に危機感を抱いた比叡山延暦寺は、比叡山のふもとである琵琶湖西側への布教を止めるように命令を出し、また大繁盛の本願寺へ度々の献金請求をします。

 蓮如上人は比叡山からの度重なる請求に命の危機を感じ、本願寺から親鸞聖人の著書や、寺の中心となっていた親鸞聖人像(御真影)を運んで逃げ出します。その後、寛正六年(一四六五)に比叡山は本願寺を焼き討ちします。寛正の法難といわれる事件です。

 京都の東大谷から敗走した蓮如上人は南近江を中心に各地を転々とします。

 本願寺を打ち壊され、命からがら運んだ御真影を安全に守ることはできないか考えた蓮如上人は、当時比叡山と険悪であり力もあった三井寺を頼ることとなります。

 蓮如上人は本願寺再興まで御真影を預かって欲しいと三井寺へ懇願して、布教と安全な場所を探しての旅に出ます。それまでに親鸞聖人像は金森や堅田などに移された後、文明元年(一四六九)に三井寺の南別所に安置されました。

 三井寺では寺領の一部をさいて御真影を安置します。御真影には近江近郊から多くの人が参ったようです。その場所は今の近松別院(大津市、本願寺派)がある場所です。


  堅田本福寺と浄土真宗

 そののち蓮如上人は北に向かい、堅田にある本福寺住職の法住にかくまわれます。堅田は琵琶湖の西部にあり、琵琶湖のヒョウタン形のくびれに位置する場所です。湖上交通の拠点として発展し、運送業や漁業で賑わう町でした。

 町には平安時代に比叡山の恵心僧都源信が湖上に浮御堂(満月寺)という仏閣があります。

 源信僧都は浄土真宗の七高僧の一人で地獄と極楽のことを著した『往生要集』の著者です。ですから古くから南無阿弥陀仏を大切にする土地柄でした。

 本福寺住職の法住は、熱心な信者に支えられ、漁師や小作人などの苦しい生活をする人たちに教えを説いていました。そこに蓮如上人も加わって「南無阿弥陀仏」と念仏すれば救われると教えを広めました。

 しかし、応仁二年(一四六八)に、再び比叡山に大規模な攻撃をされ町に火がかけられます。堅田大責といわれます。これは蓮如上人のせいだけでなく、比叡山の領地であった堅田が、比叡山への物資に通行税を取り始めるなど勝手な行いを始めたためであったともいわれています。当時の権力の抑えが効かなくなくなっていたことがうかがえます。

 蓮如上人は五十七歳になっていましたが身一つで命がけの旅を再開します。

 その旅で蓮如上人は北陸での教化に力を注がれました。福井の吉崎に立派な本堂が建てられ、多くの人がお参りするようになり、町自体も大変栄えたそうです。

 しかしながら、大きなお金や権力が集まるようになると内部分裂や武力を持つ門徒集団の争いが起こるようになったそうです。

 後に加賀の一向一揆が起こるなど、北陸は現在に至るまで浄土真宗門徒の多い土地として有名なことから影響の大きさがうかがえます。

蓮如上人は六十四歳で北陸でのお仕事を終え、京都に山科本願寺を建てられます。


  堅田の源兵衛の首

 文明十二年(一四八〇)山科に念願の本願寺本堂が完成します。そこで十五年のあいだ三井寺に守ってもらっていた御真影返してもらいにいくことになります。

 ここで「かたた源兵衛の首」の伝説がでてきます。蓮如上人は三井寺に親鸞聖人像の返還を願います。すると三井寺は突然の大教団になった本願寺への妬みもあったのでしょうか、それはできないと返答します。

 お金ではなく人間の首を二つ持ってくれば返そう、それだけの価値はあると要求します。蓮如上人は困り果てて門信徒に相談します。

それを聞いた家族そろっての熱心な信徒であった堅田の漁師源右衛門は、息子の源兵衛の首切り取り三井寺に持参します。首を持った源右衛門は三井寺の住職に息子の首を持ってきました。

 もう一つは自分の首を差し出しますから、どうか親鸞聖人の像を返して下さいと懇願します。三井寺はまさか約束を守られると思っていなかったので慌てて御真影を源右衛門に返すことになります。

 そのような殉教者によって親鸞聖人像が本願寺へ帰ってきたという伝説が残っております。現代の感覚では木像と人間が釣り合う訳がないと思えますが、人権も自由もない時代に命を捨てる選択で親鸞聖人を守れることが何よりの名誉だったのでしょう。この「かたた源兵衛の首」は大津市の等正寺の他、数ケ寺の真宗寺院にあるそうです。

 一方、三井寺側の説によると、三井寺は御真影と蓮如上人を焼き討ちから手厚く庇護し、蓮如上人がお礼として手作りの親鸞聖人像を奉納したそうです。現在も三井寺の観音堂にその像がおかざりされています。


  山科本願寺が完成

 本願寺が焼けてからの間、蓮如上人は南近江や三河門徒の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどして比叡山と和解しました。

 やっとの思いで、京都の山科に本願寺を建てて親鸞聖人像を迎えることができました。親鸞聖人が今生きて説法されているように感じる場所として多くの人で賑わう大寺院となりました。

 本願寺は、大きな堀と壁を持つ城のような城塞都市を作ったのです。いまでも東西本願寺に堀と壁があるのはその寺内町の作りをしているといわれます。

 蓮如上人は、住職を九代目実如に譲った後も精力的に活動し、南無阿弥陀仏の六字名号の本尊とお手紙(御文)を全国に配り、教えを広めてゆきました。

 そして八十二歳で大阪に大阪御坊(のちの石山本願寺)を建立して、山科本願寺で八十五歳の生涯を終えます。

 大津市に行ったことで思い出した話や、聞いていたことを書かせていただきました。小さな本願寺を全国に寺内町をもつ大教団に発展させた蓮如上人は、多くの近江の人々に守られ船で琵琶湖を渡り、各地で布教をして命を狙われながらの生活を滋賀県でしていました。

 魚を釣り、畑を耕し、日々の生活に追われる人々が救いを求めたのは南無阿弥陀仏の教えでした。難しい修行も、学問もいらない。ただ救われることを信じればいいという蓮如上人の教えが戦国時代に移りゆく時代の光となったのです。


  御影道中(ごえいどうちゅう)

 現在でも毎年蓮如上人の御命日三月二十五日の法要を本山で終えると、蓮如上人の御苦労を偲んで、京都東本願寺を四月十七日に出発する蓮如上人御影道中という行事が三百年前より行われています。

 リアカーに紐をつけて蓮如上人の絵像を乗せて片道二百四十キロ徒歩で吉崎御坊に行くという行事です。

 御下向という吉崎に向かう移動は、山科から琵琶湖の東側を通ります。大津、堅田を通って福井に一週間かけて進みます。途中には蓮如上人に立ち寄ってもらいたいという場所に絵像をお迎えして、そこで法話があります。

 そして福井県吉崎で一週間のご命日の法要を終えた後は、また一週間かけて京都に帰ります。御上洛という京都の東本願寺に帰る道は琵琶湖の西側、長浜や彦根を通ります。

 車輪が使えない場所は背中に絵像を担いで登る蓮如上人のご苦労を偲び、一緒に旅をする法要が今も行われています。

2023 新盆合同法要・盂蘭盆会合同法要勤まる

 七月九日には新盆合同法要を、八月六日には盂蘭盆会合同法要を宗泉寺本堂に於いてお勤めしました。

 政府のコロナ対応が変化したこともあってか、電車でもマスク無しの人も増えていますが、宗泉寺では引き続きマスク着用を推奨させて頂き、用心しながらの開催となりました。おかげさまで、無事にお勤めすることができました。ありがとうございました。

新盆合同法要法話の要約

 お盆の由来は「盂蘭盆経」というお経に基づいています。この経典は、お釈迦様の弟子である目連尊者とその母に関する物語が説かれています。目連尊者は亡くなった母を餓鬼道から救いたいと願い、お釈迦様に相談します。

 お釈迦様は目連尊者の母が他人と分かちあい与えることをしなかったために餓鬼道に生まれたと説き、母は目連が皆に施しをすると救われますと教えます。

 目連尊者は修行者たちに飲食物を供養して、母の救済に成功します。これに基づき、お盆行事が行われています。

 浄土真宗の教えでは、亡くなった人々は阿弥陀仏のお救いによって浄土に生まれます。浄土は苦しみのない美しい場所です。浄土に生まれた方々は、怨みや祟りはなく、病気や怪我の原因ではありません。

 そのため、浄土真宗では餓鬼になったものに施しをする施餓鬼を行いません。親鸞聖人の歌によれば、

安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきはもなし

(訳―悩み苦しみばかりの思い通りにならない世界で生きる私たちのところに、浄土で覚りを得た人たちがお釈迦様のように教えを説き、私たち生きとし生けるものに教えを授けてくださる)

 仏様となった方から生きていく力、導きをいただいて歩んでいこうというのが浄土真宗の教えです。

 本日は大切な方をなくし新盆を迎えられた方に集まって頂きました。

 新盆をご縁として亡き人を思い、手を合わせ、仏様のお徳をたたえていただきました。これからも故人様から力を頂き、導きを頂きながら念仏申す生活をしていただけたらと願っております。

お盆合同法要午前の部法話の要約 

 今日、八月六日は広島に原爆が投下された日です。慰霊の日として大切にされています。

 身近な人が亡くなったら辛く悲しいものですが、どこかの誰かが亡くなったと聞いても気の毒だな、大変だなと言うほどの心しか起こらない。自分の事のように人の事を思うというのは難しいのが私たちの心です。

 私たちは様々なご縁の中で生きています。先輩後輩、先生と生徒、上司部下、店員とお客さんなど、網の目のような様々なつながりの中で生きているというのが仏教の縁のつながりです。しがらみといわれることもあります。その目に見えないつながりで支え合って生きていると説いたのがお釈迦様です。

 盂蘭盆会は、ケチのため餓鬼の世界に生まれてしまった母を助けようという教えに基づいた法要です。仏教は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道の世界を生まれ変わり続ける輪廻からどうにか抜けようという教えです。

 善い世界に生まれたと思っても、次はどうなるか分からないというのはやるせないと、お釈迦様が六道輪廻から抜けだす方法を説いてくださいました。

 浄土真宗を興された親鸞聖人は『歎異抄』第五条で

親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候(そうら)はず。そのゆゑは、一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。

とおっしゃいました。

 私たちは身近な人を大切にしようという心は起こりやすいけれど、それ以外の人のことを自分の子のように大切にしようという心を起こすのは難しいです。

 親鸞聖人は直接の父母のために念仏を称えたことはありませんと説きます。自分の身近ではない人も、輪廻の中では過去の親兄弟であったかもしれないからです。

 輪廻は自分の生き方によって来世が変わるという生きざまを縛る考え方ですが、それを見ず知らずの人を愛するための輪廻に見方を変えた所が親鸞聖人のすごい所です。

 自分の親のためでなく、縁のあった皆と救われていこうという大きな願いを仰っているのです。

 見ず知らずの人を心配し考えるのは普段は難しいですが、遠くの他人と思っている人たちもお互いに支え合って世界が成り立っていることを考えて頂けたら幸いです。

2023夏 お盆合同法要正午の部法話の要約

 東本願寺出版の『真宗児童聖典』を読みました。子どもが浄土三部経の内容に触れられるように大正時代に書かれたものを読みやすいのように現代語に直した本です。

 その本の『阿弥陀経』の一部分を朗読し解説しました。

少しくらい善い行いを積み重ねただけでは、極楽の世界に生まれることはできません。極楽の世界に生まれる種は念仏です。一日でも二日でも、あるいは七日でも、こころを散らさずにひたすらに阿弥陀さまの名、南無阿弥陀仏を称えると、生きているうちは阿弥陀さまとその弟子たちにまもられ、いのちが終わるとすぐ、阿弥陀さまの極楽の世界に生まれることができるのです。

 小さな善であっても積み重ねれば、極楽に生まれると可能性があると思っていますが、それは難しいです。極楽に生まれるには「南無阿弥陀仏」と仏様の名前をとなえる念仏以外の方法は難しいのです。だから簡単で平等なこの念仏を仏様が選んでくれました。

 人間一人一人の生き方や行ったことで生まれ行く先が決まるのならば、百人いれば百とおりの行き先ができてしまいます。

 ですが、南無阿弥陀仏ととなえたら極楽に生まれさせようと阿弥陀様が約束して下さっているのだから、南無阿弥陀仏ととなえたら誰もが極楽に生まれることができる。これが阿弥陀さまの救い方です。だからみんなで極楽に一緒に生まれることができるのです。というお話をしました。

2023夏 自死者追弔法要報告

 2023年6月5日に宗泉寺本堂にてお勤めしました。

 皆さんで正信偈をお勤めしたあと、住職から少しお話しをさせていただき、その後お互いのお話しを聞きあう会を行いました。

 許可を得て、参加された方の感想を掲載します。


○参加していつも思うことは、お寺さんで気にかけて下さっているありがたさです。子供の事を思わない日はないけれど 親が下を向いていたら子供は喜んではくれないだろう。少しでも前を向いていこうと思います。


○今日は、ありがとうございました。

 やっぱりまだ人から見ると心配させる人なんだと痛感しました。

 でも世の中の人は、やさしい人が多いのだという事も今日思いました。

 みんな何かを抱えて生きていて、最後まで人生を生きるって本当にすごい事なのだと気づきました。少しは、人を信じてみたいと思います。

 この法要は、自死で亡くなった方を追弔し、遺族の方に寄り添う機会になればと思い開催しています。


 グリーフ(喪失)を抱えやすくするためのケアという考え方があります。以前にお話を聞かせて頂いたリヴオンというグリーフケア活動をしている団体の講師の方の「ままに」という言葉が、今も印象に残っています。大事な誰かを亡くした時にどう感じるかは、その人によって色々で、そのままを大事にしたいということだったと思います。

 皆さんで思いを尊重し合いながら、安心して“そのまま”を聞きあう場をつくれたらと願っています。

コラム TALKの原則

 身近な人「死にたい」と訴えられたり、自殺の危険の高まった人に出会ったとき、相談された人が不安になったり、その気持ちを否定したくなって「大丈夫、頑張れば元気になる」と安易に励ましたり、「死ぬなんて馬鹿なことを考えるな」と叱ったりしがちです。

 しかし、それでは、せっかく開き始めた心が閉ざされてしまいます。自殺の危険が高まった人への対応においては、次のようなTALKの原則の原則が求められます。

 TALKの原則

(T)Tell:言葉に出して心配していることを伝える。「大丈夫?」「心配だよ」

(A)Ask:「死にたい」という気持ちについて、率直に尋ねる。「どんな時に死にたくなるの?」

(L)Listen:絶望的な気持ちを傾聴する。話を遮らず最後まで聞く。

(K)Keep safe:安全を確保する。危険な環境なら引き離す。

2023夏 境内を綺麗に―草むしり報告

 今年のこの季節、やはり暑い草むしりとなりました。今年は七月から涼しい時間に作業しようと、いつもより一時間早めて午前八時から作業開始、午前十時に終了としました。

 夏は短期間で草もつる植物ものびるので、大変な作業となりました。おかげさまでお盆など綺麗な庭で迎えることができました。ありがとうございました。

2023-09-27 | カテゴリー : 行事報告 | 投稿者 : stan