宗泉寺行事報告と近況ブログです。
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2024春 みんなで本を読むー聞法会の報告
12月22日(金)
12月の法語
一人一人がお浄土を飾っていく
一輪一輪の花になる
梯實圓
についての文章を皆さんで音読しました。スマップの「世界に一つだけの花」の引用があり、歌詞と法語が解説されていました。お経の中の「浄土の蓮は光を放つ」という言葉と、一人一人輝いて生きようという歌詞を結びつけたものでした。感想として、目指す方向があり、そこに進もうというのは宗教ではなく文化ではないか? 赤い光が赤い光を放たなければいけないというのも押しつけではないか。亡くなったら浄土の花になると断言されると受け入れがたいという意見がありました。
1月25日(木)
住職から正信偈についてお話がありました。能発一念喜愛心から如衆水入海一味の部分で信心の利益の解説でした。次いで法語カレンダーについての冊子を読みました。
表紙の言葉
光明と名号がからみあい
妙なる音楽を奏でている
青木新門
表紙の言葉についての文章を読み、青木新門さんについてのお話や参加者それぞれどのように真宗とご縁ができたのかなどお話が盛り上がりました。
2024年も、ひとまず法語カレンダーについての冊子を読んでいく予定です。
今年の法語カレンダーと冊子は、まだいくらかお寺に在庫がございます。欲しい方にはさしあげますのでお申し出下さい。
Q般若心経は仏教なら読むのが常識でしょ?
A 浄土真宗は読みません。
般若心経は宗派問わずに読誦すると認識している方は多くいらっしゃいます。法相宗・天台宗・真言宗・禅宗などの宗派や修験道・神道でも読まれています。一方、浄土真宗や日蓮宗などは般若心経を読まない宗派です。
般若心経は、大乗仏教の空の教えを説く短い経典です。仏教の教えを理解し、学んでゆくには大切な経典です。しかし、非常に難解で厳しい条件を乗り越えたものが、たどり着ける境地について書かれています。
まず「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時」から始まります。観音菩薩というほぼ仏と同じ境地になった修行者が主語になっています。菩薩とは自分の救いはいらないから、他の人が救いたいという大願をもった人です。その人が深般若波羅蜜多という、「人間には到達不可能な、深い瞑想と智慧の境地に身も心もたどり着いている時」の話です。
その様な修行が完成している立派な菩薩様の話を聞いても「私ってダメ、努力不足、修行も信仰心も足りないせいで、苦が苦だと感じてしまうんだ」となってしまいます。
また、教えを聞いている人も釈迦十大弟子の中で智慧第一の舎利子が教わっているのです。数千人の仏弟子で一番頭がよいシャーリープトラが生徒になっています。そのレベルの授業なんです。
最後の方には「能除一切苦(よく一切の苦を除く)」と書かれており、般若波羅蜜多が完成していると苦はなくなると説かれております。「その般若波羅蜜多が身に付かなくて苦しんでいるんです」となってしまいます。
つまり、般若心経は最上級者向けの内容だから、短くて深い内容になるわけです。
さて、浄土真宗は阿弥陀如来による救済を説くために、阿弥陀如来についてのお経である三部経を大切にしています。ですから、ご法事や毎日のお勤めは阿弥陀様の救いが書かれているお経を読むわけです。
一般的な仏教は自分が努力して頑張って、仏に近づく自力という方法を選びます。浄土真宗は阿弥陀仏の力(他力)の救いという教えです。
親鸞聖人のお手紙が書物になった『末灯鈔』に、このような話があります。
往生の根機に他力あり、自力あり。(中略)まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。
意訳:浄土に生まれる方法に他力と自力がある。まず、自力とは修行者のそれぞれの縁によって、色んな仏の名をとなえたり、様々な善い心で修行して、私の身を頼みとし、私の判断で身も言葉も心も乱れた心をつくろって、立派にして浄土に生まれようと思うことを自力という。
また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。
意訳:また、他力とは、阿弥陀如来の約束のなかで選び抜かれた、念仏をとなえたら浄土に生まれさせようという約束を信じることが他力という。
自分の努力で浄土に生まれようとする方法ではなく、阿弥陀如来の約束を信じるのが浄土真宗の教えです。
親鸞聖人がお説きくださったように、自分の力で修行し般若波羅蜜多を身につけて、立派になって浄土に生まれようとする、自力はとても難しいのです。
今の私でも達成できそうな教え・経典を選んでいただければ良いと思います。
「私って本来は空なのに何で苦しいんだろう」と思ったり「覚りの智慧から見れば生まれてもいないし死にもしないのに愛する人が亡くなって辛い」と思う私には、残念ながら『般若波羅蜜多心経』は分からないのです。その様な人が集まって浄土真宗がおこったともいえるわけです。
生活環境で『般若心経』に馴染みがあるという方も沢山いらっしゃいます。他宗の経典も仏教を勉強するには良いきっかけになるかも知れませんが、残念ながら自力の経典は「私の人生の拠り所となる経典ではない」と浄土真宗では考えるのです。
自分の努力で浄土に生まれようとする方法ではなく、阿弥陀如来の約束を信じるのが浄土真宗の教えです。浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、どんな人でも阿弥陀様が救ってくださると説かれました。ですから、実践の難しい『般若心経』ではなく、『浄土三部経』を人生の拠り所と考えているのです。
釋尼光智の読書感想
『台湾漫遊鉄道のふたり』楊双子著
三浦裕子訳 中央公論新社
『亡霊の地』陳思宏著 三須 祐介訳
早川書房
一月末現在、昨年中に読んだ本や出版された本で好きだった、良かった本のランキング企画などを目にします。つられて、私も去年読んだ本から印象に残ったもの2冊を挙げてみました。
『台湾漫遊鉄道のふたり』は日本の植民地だった頃の台湾を舞台に、日本人女性作家と台湾人ガイドの女性が出会い別れていく物語です。二人の台湾漫遊や当時の様子を面白く読みました。ですが、個人同士の関係にも、国の支配被支配が全く無関係ではいられないのだなあとしっかりと感じさせてくれる結末でした。台湾に元々住んでいた人たちに少しですが触れられていたことも印象に残りました。
『亡霊の地』は、同性愛者でドイツに出奔した台湾出身の作家が、故郷の町に帰ってくる話です。台湾の主人公と家族の歴史と思い出がそれぞれの視点で描かれます。台湾は現在の民主的な国で、人気の観光地というイメージが強いです。過去に日本に侵略されたとは知っていても、歴史はぼんやりとしか知りませんでした。『亡霊の地』では、政府が違う考えの人を弾圧した時代のこと、女性や同性愛者の人権が踏みにじられたことが登場人物それぞれの人生に影響していると感じました。
二冊とも登場人物の思い出(小説なので架空のものではあるのですが)を通して、歴史や社会の知らなかったことを見せてくれました。今年もいろんな本を読めたらいいなと思っています。
2024年 年回表
回忌 | 没年 |
1周忌 | 令和 05年(2023) |
3回忌 | 令和 04年(2022) |
7回忌 | 平成 30年(2018) |
13回忌 | 平成 24年(2012) |
17回忌 | 平成 20年(2008) |
23回忌 | 平成 14年(2002) |
27回忌 | 平成 10年(1998) |
33回忌 | 平成 04年(1992) |
37回忌 | 昭和 63年(1988) |
43回忌 | 昭和 57年(1982) |
47回忌 | 昭和 53年(1978) |
50回忌 | 昭和 50年(1975) |
100回忌 | 大正 14年(1925) |
2023 報恩講・秋の彼岸法要勤まる
9月24日、宗泉寺本堂にて、お集まりいただいた皆さんとお勤めしました。
講師には滋賀県から瓜生崇先生に来ていただきました。お話は、親鸞聖人はどんな時代に生まれた何をした方なのかというお話しと、どのように京都で浄土の教えを説いていた法然上人に出会ったのか等、当時の時代背景なども交えてお話いただきました。
因縁についての質問をしました。仏様からみれば過去から未来の因縁を全て見通してどうすれば、この人が覚りを得ることができるか見通すことができる。だが、仏でない人が因縁の教えを利用して、過去世に悪いことをしたと驚かすことは仏教ではないと教えて下さいました。
2023冬 仏具を綺麗に―おみがき報告
9月17日にお寺の客殿に集まって仏具のお磨きをしました。ピカピカになった仏具をお互いで褒め合いました。ありがとうございました。
2023冬 お寺デ健康体操報告
おみがきの後で体操をしました。虚弱防止のための簡単な運動です。お寺に来られる人は元気な方ばかりで楽々運動していました。座りながらできる体操を習いました。お気軽にご参加下さい。
2023冬 境内を綺麗に―草むしり報告
今年は暑い日が続きました。草むしりや植木の剪定をしていただき、ありがとうございました。お寺に来る方達をさっぱりした庭でお迎えすることができました。
来年も三月になりましたら、作業を始めますのでお手伝いいただけますと助かります。
2023冬 みんなで本を読むー聞法会の報告
ここ数年は法語カレンダーの解説書『今日の言葉(大谷派)』と『こころに響くことば(本願寺派)』を読んで同じ法語をどう受け取っているかを読み比べています。
◇10月20日(金)
前半は住職の『正信偈』のお話しです。本願名号正定業~必至滅度願成就のお話です。第十八願の至心信楽の願について聞きました。
阿弥陀様が南無阿弥陀仏と称えて欲しい、名前を呼んで欲しいと願って下さっている。だから、私たちが南無阿弥陀仏と称えることができますというお話でした。
十月の法語
念仏というのは 私に現れた 仏の行い 坂東 性純
親鸞聖人の750回御遠忌法要のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」という表現について話し合いました。法然上人のお弟子の耳四郎という元大盗賊のお話も印象的でした。大盗賊も阿弥陀様は救うというお話です。テーマも耳四郎も、主語は私ではなく阿弥陀様からの呼びかけが中心にあるということなのかなと思いました。
◇11月29日(水)
前半は住職の『正信偈』についてのお話を聞きました。前回までの振り返りも交えつつ、内容を解説していきます。如来所以興出世~応信如来如実言のお話です。
お釈迦様が覚りについて人々に説くことがこの世界に生まれた本来の目的である、という出世本懐のお話。また、浄土真宗の大切にしている『大無量寿経』について少しふれました。親鸞聖人がお釈迦様のお弟子の中で覚ることができなかった阿難尊者に語りかけるお経を大事にしているという意味についてお話しました。
11月の法語
生の依りどころを与え 死の帰するところを 与えていくのが 南無阿弥陀仏 金子 大榮
自力でなく、阿弥陀様におまかせして救っていただくということ。欲望を反映したいいところという浄土にいくということではない事などについて読みました。
若い世代にどうやって伝えていくのかなど、宗教二世の話も出たりと色々話し合いました。
皆様のご参加お待ちしています。
蓮如上人と大津 釋龍源著
堅田正福寺展
滋賀県大津市の歴史博物館で開催されていた堅田本福寺展を見に行ってきました。
大津市の堅田本福寺の寺宝物を色々拝見しました。親鸞聖人の自筆の名号(御本尊)、蓮如上人からのお手紙、 また各時代の領主や武家のお手紙など、本当に丁寧に保存してありました。何度か火災もあったようですが、八百年間の資料を一つのお寺とその門徒衆で守っていることが立派だと思いました。
手紙一通でも封筒から保管し、寺族の法名を本山からもらった紙など三百年前の法名の書式が見ることができました。本山に任せておけば安泰だと考えない方法によって、今でも正しい資料を見ることができるのは素晴らしい姿勢だと感じました。
大津三井寺
京都駅からJRで大津駅へ行き、江若バスで琵琶湖畔へ行きました。久しぶりに見る琵琶湖は雄大なものでした。そこから歩いて十五分ほどの通称三井寺、園城寺にお参りに行きました。
三井寺は天皇家ゆかりのお寺で比叡山と並ぶ権力を持っていたそうです。そのこともあり比叡山と敵対することも何度かあったようです。
境内には鉄鼠という妖怪の看板がありました。昔三井寺に頼豪という高僧がおり、三井寺に戒壇(戒律を与えることができる施設)を作りたいと調停にお願いしたところ、比叡山からの反対で断られたので、激怒し比叡山に呪いをかけて大量のネズミを送り込んで復讐をしたというお話。それが鉄鼠というネズミの妖怪のもとになったそうです 。
また、武蔵坊弁慶が放り投げてひびを入れたという鐘も見られました。弁慶が争っていた三井寺の釣鐘を奪って比叡山まで持って行ったところ、鐘は「いのういのう」(関西弁で帰ろうという意味)と鳴ったそうです。そこで、弁慶が怒って谷へ放り投げヒビが入ったそうです。
どちらも比叡山と不仲だったことがよくわかる伝説だと思いました。
ですから、比叡山からにらまれていた本願寺、蓮如上人と三井寺は関わりがあったのでしょう。
蓮如上人と活躍した時代
蓮如上人(一四一五―一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれました。本願寺は浄土真宗の開祖、親鸞聖人のお墓(御廟所)でもありました。当時の本願寺は小さな寺で天台宗の末寺でした。親鸞聖人が亡くなって百数十年が経ち、聖人の弟子たちが説く教えは盛んになっていましたが、子孫が運営する本願寺へお参りする人は少なく、本願寺はさびれていたようです。蓮如上人の母親は寺の下働きをする女性であったともいわれております。
蓮如上人は代々受け継がれてきた親鸞聖人の教えを学び、分かりやすいように布教をし、四十二歳で第八世の本願寺の住職となります。
蓮如上人の布教の工夫として有名なものは、今では門徒には親しみ深い正信偈をみんなで唱えることをはじめたり、色んな人にむけて教えをわかりやすい言葉で書いたお手紙(御文)を送りました。
字を読めない人、土地を持たない人、職人、商人など人口の大半であった社会の下層に属する人々の支持をえて、本願寺はどんどんと信者が増えていきます。時代は南北朝時代の終わり、朝廷が支配していた荘園制度が保てなくなってきており、大きな荘園を持ち、貴族に支えられたお寺も大きな影響を受けると考えられたことでしょう。
本願寺破却と三井寺
そんな仏教界の変化に危機感を抱いた比叡山延暦寺は、比叡山のふもとである琵琶湖西側への布教を止めるように命令を出し、また大繁盛の本願寺へ度々の献金請求をします。
蓮如上人は比叡山からの度重なる請求に命の危機を感じ、本願寺から親鸞聖人の著書や、寺の中心となっていた親鸞聖人像(御真影)を運んで逃げ出します。その後、寛正六年(一四六五)に比叡山は本願寺を焼き討ちします。寛正の法難といわれる事件です。
京都の東大谷から敗走した蓮如上人は南近江を中心に各地を転々とします。
本願寺を打ち壊され、命からがら運んだ御真影を安全に守ることはできないか考えた蓮如上人は、当時比叡山と険悪であり力もあった三井寺を頼ることとなります。
蓮如上人は本願寺再興まで御真影を預かって欲しいと三井寺へ懇願して、布教と安全な場所を探しての旅に出ます。それまでに親鸞聖人像は金森や堅田などに移された後、文明元年(一四六九)に三井寺の南別所に安置されました。
三井寺では寺領の一部をさいて御真影を安置します。御真影には近江近郊から多くの人が参ったようです。その場所は今の近松別院(大津市、本願寺派)がある場所です。
堅田本福寺と浄土真宗
そののち蓮如上人は北に向かい、堅田にある本福寺住職の法住にかくまわれます。堅田は琵琶湖の西部にあり、琵琶湖のヒョウタン形のくびれに位置する場所です。湖上交通の拠点として発展し、運送業や漁業で賑わう町でした。
町には平安時代に比叡山の恵心僧都源信が湖上に浮御堂(満月寺)という仏閣があります。
源信僧都は浄土真宗の七高僧の一人で地獄と極楽のことを著した『往生要集』の著者です。ですから古くから南無阿弥陀仏を大切にする土地柄でした。
本福寺住職の法住は、熱心な信者に支えられ、漁師や小作人などの苦しい生活をする人たちに教えを説いていました。そこに蓮如上人も加わって「南無阿弥陀仏」と念仏すれば救われると教えを広めました。
しかし、応仁二年(一四六八)に、再び比叡山に大規模な攻撃をされ町に火がかけられます。堅田大責といわれます。これは蓮如上人のせいだけでなく、比叡山の領地であった堅田が、比叡山への物資に通行税を取り始めるなど勝手な行いを始めたためであったともいわれています。当時の権力の抑えが効かなくなくなっていたことがうかがえます。
蓮如上人は五十七歳になっていましたが身一つで命がけの旅を再開します。
その旅で蓮如上人は北陸での教化に力を注がれました。福井の吉崎に立派な本堂が建てられ、多くの人がお参りするようになり、町自体も大変栄えたそうです。
しかしながら、大きなお金や権力が集まるようになると内部分裂や武力を持つ門徒集団の争いが起こるようになったそうです。
後に加賀の一向一揆が起こるなど、北陸は現在に至るまで浄土真宗門徒の多い土地として有名なことから影響の大きさがうかがえます。
蓮如上人は六十四歳で北陸でのお仕事を終え、京都に山科本願寺を建てられます。
堅田の源兵衛の首
文明十二年(一四八〇)山科に念願の本願寺本堂が完成します。そこで十五年のあいだ三井寺に守ってもらっていた御真影返してもらいにいくことになります。
ここで「かたた源兵衛の首」の伝説がでてきます。蓮如上人は三井寺に親鸞聖人像の返還を願います。すると三井寺は突然の大教団になった本願寺への妬みもあったのでしょうか、それはできないと返答します。
お金ではなく人間の首を二つ持ってくれば返そう、それだけの価値はあると要求します。蓮如上人は困り果てて門信徒に相談します。
それを聞いた家族そろっての熱心な信徒であった堅田の漁師源右衛門は、息子の源兵衛の首切り取り三井寺に持参します。首を持った源右衛門は三井寺の住職に息子の首を持ってきました。
もう一つは自分の首を差し出しますから、どうか親鸞聖人の像を返して下さいと懇願します。三井寺はまさか約束を守られると思っていなかったので慌てて御真影を源右衛門に返すことになります。
そのような殉教者によって親鸞聖人像が本願寺へ帰ってきたという伝説が残っております。現代の感覚では木像と人間が釣り合う訳がないと思えますが、人権も自由もない時代に命を捨てる選択で親鸞聖人を守れることが何よりの名誉だったのでしょう。この「かたた源兵衛の首」は大津市の等正寺の他、数ケ寺の真宗寺院にあるそうです。
一方、三井寺側の説によると、三井寺は御真影と蓮如上人を焼き討ちから手厚く庇護し、蓮如上人がお礼として手作りの親鸞聖人像を奉納したそうです。現在も三井寺の観音堂にその像がおかざりされています。
山科本願寺が完成
本願寺が焼けてからの間、蓮如上人は南近江や三河門徒の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどして比叡山と和解しました。
やっとの思いで、京都の山科に本願寺を建てて親鸞聖人像を迎えることができました。親鸞聖人が今生きて説法されているように感じる場所として多くの人で賑わう大寺院となりました。
本願寺は、大きな堀と壁を持つ城のような城塞都市を作ったのです。いまでも東西本願寺に堀と壁があるのはその寺内町の作りをしているといわれます。
蓮如上人は、住職を九代目実如に譲った後も精力的に活動し、南無阿弥陀仏の六字名号の本尊とお手紙(御文)を全国に配り、教えを広めてゆきました。
そして八十二歳で大阪に大阪御坊(のちの石山本願寺)を建立して、山科本願寺で八十五歳の生涯を終えます。
大津市に行ったことで思い出した話や、聞いていたことを書かせていただきました。小さな本願寺を全国に寺内町をもつ大教団に発展させた蓮如上人は、多くの近江の人々に守られ船で琵琶湖を渡り、各地で布教をして命を狙われながらの生活を滋賀県でしていました。
魚を釣り、畑を耕し、日々の生活に追われる人々が救いを求めたのは南無阿弥陀仏の教えでした。難しい修行も、学問もいらない。ただ救われることを信じればいいという蓮如上人の教えが戦国時代に移りゆく時代の光となったのです。
御影道中(ごえいどうちゅう)
現在でも毎年蓮如上人の御命日三月二十五日の法要を本山で終えると、蓮如上人の御苦労を偲んで、京都東本願寺を四月十七日に出発する蓮如上人御影道中という行事が三百年前より行われています。
リアカーに紐をつけて蓮如上人の絵像を乗せて片道二百四十キロ徒歩で吉崎御坊に行くという行事です。
御下向という吉崎に向かう移動は、山科から琵琶湖の東側を通ります。大津、堅田を通って福井に一週間かけて進みます。途中には蓮如上人に立ち寄ってもらいたいという場所に絵像をお迎えして、そこで法話があります。
そして福井県吉崎で一週間のご命日の法要を終えた後は、また一週間かけて京都に帰ります。御上洛という京都の東本願寺に帰る道は琵琶湖の西側、長浜や彦根を通ります。
車輪が使えない場所は背中に絵像を担いで登る蓮如上人のご苦労を偲び、一緒に旅をする法要が今も行われています。