2024夏 永代経と春期彼岸法要勤まる

 3月のお彼岸の日曜日に、永代経法要と春彼岸会法要をお勤めしました。御講師としてジェシー釋萌海先生に御法話をいただきました。お話の感想を書きます。

 宗泉寺は自死者追弔法要という、みずから命を終えていった自死者の法要や、ご遺族同志の話し合いの場をもつ活動しております。安楽死(自死者)の遺族であるジェシー先生をお招きしてお話を聞くこともその一環となるのではと思い、この度のお願いをしました。

 ジェシー先生はスイスの山間の村で育ち、幼い頃から空手を学んで日本に興味を持ち、現在は日本で僧侶として活動されています。

 今回、数年前にジェシー先生のスイスに住むお母さんが、安楽死で亡くなった話をしていただきました。

 元気だったお母さんと別れる葛藤や苦しみ、そして死を選ぶという納得のできない決断のことや、安楽死の方法、またスイスが安楽死を認めていることも問題ではないかというお話しでした。

 お母さんは「もうやりたいことは終えたし、後は老いるのを待つだけでは生きていたくない」と話していました。

 そして安楽死の日にちが決まった後も、どうにか説得はできないのか心変わりするのではと、手を尽くして説得したり怒ったり、なだめたりを毎日電話で続けました。しかし、その日がやってきて、決行の時間が来てしまいました。ジェシー先生は、その日はなるべく決行の時間を考えないように、時計を見ないようにして過ごしました。

 ついに安楽死の実行の時間が過ぎたことを知り、なんだか信じられない複雑な気持ちだったそうです。

 それからは、母はなんで亡くなったのだろうか? 元気な肉体を持っているお母さんが自ら死を選ぶと言うことに悩み、苦しみの日々だったこともお話下さいました。

 そんな日々のなかで、以前から東本願寺の看板に掲げてあった言葉「今、あなたがいのちを生きている。Now, Life is living you.」を見て「私が」いのちを生きているのではないという表現に驚いて、いのちってなんだろうと改めて考えるようになったそうです。その後、興味を持った東本願寺の門を叩き、たくさんの先生のお話を聞く中で、僧侶の資格を取りたいと決心し、所属するお寺も見つかり、お坊さんになることができたと言うことでした。

 大きな苦しみの中でお母さんの命とは何であったのか、また自分自身の命とは何なのか。深い悲しみの中で思い悩んでいた中で仏教の教えに出会うことができたというお話を聞かせていただきました。

 お話の中でジェシー先生がお母さんの写真を参詣者に見せて、これが母ですと説明しました。そのお母さんの写真を投げ捨てて、畳の上に落としたままにして三十分程お話ししていました。その姿を見て、お母さんへの色々な気持ちの中に怒りという苦しみもあることが伝わって来ました。

 日本は世界的にみても自死者の多い国です。もし日本で安楽死という、国によって認められた自死の方法が許されたならば、死を選ぶ人も多いだろうと思います。確実に医療者の手によって死の選択の機会が選べるのならば、その方法を選ぶ人もいるでしょう。安楽死を認めた方が良いのではという発言も見たことがあります。実際に海外に行って安楽死を選択する日本人をテレビ番組で特集したものも見ました。自分のいのちだから、自分の選択で決めたのだという考え方もあるのでしょう。

 しかし、生きて行くよりも死を選ばなくてはならないような価値観、他人を切り捨てるようなまなざし、厳しい社会状況や不十分な福祉制度など、無意識のうちに強要された選択もあると思います。

 ジェシー先生の「いのちは誰のものか?」と言う問いには、「いのちは私のものではない」という気づきがあるのではないでしょうか。

文責 釋龍源