宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要に参詣

 京都の本山で五十年に一度の慶讃法要にお参りをしてきました。しばらくコロナウィルス蔓延防止のため他県に行くことはありませんでしたが、久し振りに近隣の名所にお参りしてまいりました。


親鸞展(京都国立博物館)

 京都の本山東本願寺での慶讃法要は動画で毎日配信を見ておりましたが現地でお参りしたいと思い神奈川から出発しました。新幹線もほぼ満席で外国からの観光客らしき人たちも沢山いました。京都はコロナ以前のように多くの人がいてバス乗り場も大行列でした。

 午後に法要が始まる日だったので、午前中は京都国立博物館で開催されている親鸞展を見学にいきました。博物館は三十三間堂の前にあり駅から徒歩二十分ほどです。

 親鸞展では宗派を超えて守られてきた浄土真宗に関係する宝物が展示されていました。親鸞聖人の直筆で国宝の『教行信証』や経典の注釈書、親鸞聖人のお書きになったお手紙など 数多くが展示されていました。印刷物では見たことがありましたが、八百年前に親鸞聖人が触れて書いたものを目にする事ができて嬉しいかぎりです。

 また、親鸞聖人が大切にされた七人の僧侶(七高僧)の著書や解説、親鸞聖人の生涯を絵図で表した伝記など、たくさんの展示がありました。親鸞聖人の直筆のものの多くは真宗高田派の専修寺に残されていることも知りました。五月二十一日まで開催されています。


慶讃法要(真宗本廟)

 東本願寺での慶讃法要は参加の申し込みをしていなかったため席がないかと不安でしたが、二百席程の自由席があり安心して参詣できました。

 法要は両堂同時法要という初めての法要でした。浄土真宗の寺院は両堂形式といって、阿弥陀堂(阿弥陀様が真ん中)と御影堂(親鸞聖人が真ん中)という二つのお堂が建っています。阿弥陀堂で経典を読誦してから御影堂に移って正信偈を勤めるのが今までの法要作法でしたが、コロナで席を離すことや接触を避けるために両堂で同時にお勤めをする方法を考えたようです。

 私がお参りした時は本願寺の住職(釋修如)は隣のお堂で読経していたので肉眼では見えませんでしたが、中継映像とスピーカーで声に合わせて両堂の法要が務まっていました。

五十年に一度の大法要という機会に、久しぶりに京都までお参りをすることができました。インターネットで慶讃法要の中継は見ておりましたが、実際に行ってみると境内で色々な催しや展示をやっており、コロナの間は参れなかった御影堂・阿弥陀堂も大きな五色幕が張られ賑やかな装いでした。

 久しぶりの遠出で、いつでも参れると思っていた京都がやけに遠くに感じました。今後はできるかぎり京都にお参りしたいものだなと、あらためて思いました。慶讃法要は四月二十九日まで勤修されます。


真宗高田派本山専修寺

 少し足を伸ばして三重県津市にある専修寺にお参りしてまいりました。津駅からバスで行きましたが細い道の住宅街の中に突然大きなお堂が現れて驚きました。栃木県真岡市の専修寺にも行ったことはありましたが同じくらいの広さがありました。

 東西本願寺は親鸞聖人の子孫が住職のお寺ですが、真宗高田派は親鸞聖人のお弟子が受け継いだお寺です。東西本願寺では親鸞聖人は生涯お寺を建てずに布教して歩いたと伝わっております。しかし真宗高田派は親鸞聖人が関東で布教をしていた時、栃木県真岡市に長野の善光寺から阿弥陀如来像の複製をいただいて本尊とし、専修寺というお寺を建てたという伝承がルーツになっている宗派です。

 ですから親鸞聖人が、自身のお寺として教えを伝えた貴重な資料がたくさん伝わったお寺です。親鸞聖人没後の本願寺は、親鸞聖人の子孫が維持する天台宗の末寺の一軒のお寺でした。その間に教えを守り広めきたのが、親鸞聖人のお弟子さんたちの宗派です。

 真宗高田派は栃木県真岡市の専修寺が火災によって焼失後に、三重県津市にお寺を移して活動しました。その事によって二つの本山をもつお寺となっています。今でも六百ヶ寺のお寺の支える本山として活躍しております。

 境内は映画の撮影場所に使われたらしく若い女性が何グループもきて写真を撮っていました。お堂は広く大きくて、様々な場所に欄間の彫刻があり立派でした。内陣は彩色がされて高い天井が現実のものとは思えないほど見事なものでした。

 高田派でも大谷派と同じ鶴亀の燭台をおかざりしますが、よりゴージャスな鶴と亀でした。通称鶴亀と言われていますが、本当は鳳凰と龍です。

 奥には学校の運動場ほどの大きな池があり、納骨堂が建っていました。また親鸞聖人のお骨を納めたお墓もありました。

 宝物館というものが 以前はあったようですが改修中のようで取り壊されていました。その中で飾られていたであろう品々が京都国立博物館の親鸞展に展示されていました。親鸞聖人のお骨を運んだという錦の袋も博物館にありました。

 東西本願寺だけを見ていると知らないことが沢山あります。本願寺と高田派が憎み合って戦争をしたこともあります。ですが親鸞聖人直筆の大切な資料が八百年間、残されて来たのも、火災や戦の中、大きな力で専修寺が守って下さったからです。そのお寺とそれを支えてきた門徒の方々に思いをはせた参拝でした。