親鸞聖人


   
 年号  年齢      本願寺聖人伝絵  一般
 1173年  1歳 親鸞聖人誕生       
 1175年 3歳        法然上人、専修念仏を称える。 
 1180年 8歳        源頼朝ら挙兵。
東大寺、興福寺焼失。 
1181年 9歳  京都、青連院の慈円僧正のもとで出家して、比叡山に登る。    それ、聖人の俗姓は藤原氏、天児屋根尊二十一世の苗裔、大織冠 鎌子内大臣 の玄孫、近衛大将右大臣贈左大臣 従一位内麿公 号後長岡大臣、或号閑院大臣、贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。しかあれば朝廷に仕えて霜雪をも戴き、射山に趨って、栄花をも発くべかりし人なれども、興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催いしによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 干時、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父 前大僧正 慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄 の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す。自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横川の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。  平清盛没
 1185年 13歳        平氏壇ノ浦で滅ぶ 
 1191年 19歳   奈良磯長の聖徳太子廟参拝     栄西が禅宗を伝える 
 1201年  29歳  比叡山を出て京都吉水の法然上人のもとへ    建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。  
 1201年 29歳  京都、 六角堂に参籠して救世観音の夢のお告げを受ける。    建仁三年 辛酉 四月五日夜寅時、聖人夢想の告ましましき。彼の『記』にいわく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」文。救世菩薩、善信にのたまわく、「此は是我が誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々 爾時、夢中にありながら、御堂の正面にして、東方をみれば峨峨たる岳山あり、その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此の文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して、説ききかしめおわるとおぼえて、夢悟おわりぬと云々 倩此の記録を披きて彼の夢想を案ずるに、ひとえに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかれば聖人、後の時おおせられてのたまわく、仏教むかし西天より興りて、経論いま東土に伝わる。是偏に上宮太子の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。吾朝、欽明天皇の御宇に、これをわたされしによりて、すなわち浄土の正依経論等、此の時に来至す。儲君もし厚恩をほどこしたまわずは、凡愚いかでか弘誓にあうことを得ん。救世菩薩はすなわち儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらわさんがために、本地の尊容をしめすところなり。そもそもまた、大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまわずは、われまた配所に赴かんや、もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙の群類を化せん、これ猶師教の恩致なり。大師聖人すなわち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆえにわれ二菩薩の引導に順じて如来の本願をひろむるにあり。真宗茲によって興じ、念仏斯によって煽なり。是しかしながら聖者の教誨によりて、更に愚昧の今案をかまえず。かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。いまの行者、あやまりて脇士に仕うることなかれ、ただちに本仏をあおぐべしと云々 かるがゆえに聖人 親鸞 かたわらに皇太子を崇めたまう。蓋斯、仏法弘通の浩なる恩を謝せんがためなり。  
 1256年        建長八歳 丙辰 二月九日夜寅時、釈蓮位夢想の告に云わく、聖徳太子、親鸞聖人を礼したてまつりましましてのたまわく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也。」しかれば祖師聖人、弥陀如来の化現にてましますという事明らかなり。  
 1204年 32歳  七箇条制誡に「僧綽空」と記す。       延暦寺、専修念仏禁止を訴える
 1205  33歳  法然上人の『選択本願念仏集』の書写を許され、法然上人の姿を絵像に描くことを許される。    黒谷の先徳 源空 在世のむかし、矜哀の余り、ある時は恩許を蒙りて製作を見写し、或時は真筆を降して名字を書き賜わす、すなわち『顕浄土方便化身土文類』の六に云わく 親鸞聖人選述 「然愚禿釈鸞、建仁辛酉 暦、棄雑行兮帰本願、元久 乙丑 歳、蒙恩恕兮書『選択』、同年初夏中旬第四日、『選択本願念仏集』内題字、并南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本、与釈綽空、以空真筆令書之、同日、空之真影申預、奉図画、同二年、閏七月下旬第九日、真影銘以真筆、令書南無阿弥陀仏、与若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生之真文、又依夢告、改綽空字、同日、以御筆、令書名之字訖、本師聖人、今年七旬三御歳也。『選択本願念仏集』者依禅定博陸 月輪殿兼実法名円照 之教命、所令選集也。真宗之簡要、念仏之奥義、摂在于斯、見者易諭、誠是、希有最勝之華文、無上甚深之宝典也。渉年渉日、蒙其教誨之人、雖千万、云親云疎、獲此見写之徒甚以難、爾既書写製作、図画真影、是専念正業之徳也、是決定往生之徴也、仍抑悲喜之涙、註由来之縁云々  
 1205年 33歳  綽空を善信と改める。
興福寺から専修念仏停止の訴え。 
     興福寺、専修念仏禁止を訴える
         おおよそ源空聖人在生のいにしえ、他力往生のむねをひろめ給いしに、世あまねくこれにこぞり、人ことごとくこれに帰しき。紫禁青宮の政を重くする砌にも、先ず黄金樹林の萼にこころをかけ、三槐九棘の道を正しくする家にも、直ちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず、戎狄の輩、黎民の類、これをあおぎ、これをとうとびずという事なし。貴賎、轅をめぐらし、門前、市をなす。常随昵近の緇徒そのかずあり、都て三百八十余人と云々 しかありといえども、親その化をうけ、懇にその誨を守る族、はなはだまれなり。わずかに五六輩にだにもたらず。善信聖人或時申したまわく、「予、難行道を閣きて易行道に移り、聖道門を遁れて、浄土門に入りしより以来、芳命をこうぶるにあらずよりは、豈出離解脱の良因を蓄えんや、喜の中の悦、何事か之に如かん。しかあるに、同室の好を結びてともに一師の誨をあおぐともがら、これおおしといえども、真実に報土得生の信心を成じたらんこと、自他おなじくしりがたし。かるがゆえに、且は当来の親友たるほどをもしり、且は浮生の思出ともし侍らんがために、御弟子参集の砌にして、出言つこうまつりて、面々の意趣をも試みんとおもう所望あり」と云々 大師聖人のたまわく、「此の条尤然るべし、すなわち明日人々来臨のとき、おおせられいだすべし」と。しかるに翌日集会のところに、聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう。ここに数百人の門徒群居すといえども、さらに一言をのぶる人なし、是恐らくは、自力の迷心に拘りて、金剛の真信に昏きがいたすところか。人みな無音のあいだ執筆聖人自名をのせたまう、ややしばらくありて、大師聖人仰せられて云わく、「源空も信不退の座につらなり侍るべし」と、この時、門葉、あるいは屈敬の気をあらわし、あるいは欝悔の色をふくめり。  
          聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり。
 
         御弟子入西房、聖人 親鸞 の真影をうつしたてまつらんとおもうこころざしありて、日来をふるところに、聖人そのこころざしあることを鑑みて、おおせられてのたまわく、「定禅法橋 七条辺に居住 にうつさしむべし」と。入西房鑑察のむねを随喜して、すなわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢中に拝したてまつるところの聖僧の画像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがうところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。「貴僧二人来入す。一人の僧のたまわく、「この化僧の真影をうつさしめんとおもうこころざしあり。ねがわくは禅下筆をくだすべし」と。定禅問いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御房これなり」と。ここに定禅たなごころをあわせ、ひざまずきて夢のうちにおもう様、さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛いよだちて、恭敬尊重をいたす。また「御ぐしばかりをうつされんにたんぬべし」と云々 かくのごとく問答往復して、夢さめおわりぬ。しかるに、いまこの貴坊にまいりて、みたてまつる尊容、夢中の聖僧にすこしもたがわず」とて、随喜のあまり涙をながす。「しかれば夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかりをうつしたてまつりけり。夢想は仁治三年九月廿日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもうに、聖人、弥陀如来の来現ということ炳焉なり。しかればすなわち、弘通したまう教行、おそらくは弥陀の直説といいつべし。あきらかに無漏の恵燈をかかげて、とおく濁世の迷闇をはらし、あまねく甘露の法雨をそそきて、はるかに枯渇の凡悪をうるおさんとなり。あおぐべし信ずべし。  
 1205年
流罪
 35歳  興福寺の訴えにより、法然上人は土佐国(高知県)、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪。    浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。是空師の所為なりとて、忽に、罪科せらるべきよし、南北の碩才憤り申しけり。『顕化身土文類』の六に云わく、竊以、聖道の諸教、行証久廃、浄土の真宗証道今盛。然、諸寺釈門、昏教兮、不知真仮門戸。洛都儒林、迷行兮無弁邪正道路。斯以、興福寺学徒、奏達太上天皇 諱尊成号後鳥羽院 今上 諱為仁号土御門院 聖暦承元丁卯歳仲春上旬之候。主上臣下、背法違義、成忿結怨、因茲、真宗興隆太祖源空法師、并門徒数輩、不考罪科、猥坐死罪、或改僧儀、賜姓名、処遠流、予其一也。爾者、已非僧、非俗、是故、以禿字為姓、空師并弟子等坐諸方辺州、経五年之居緒云々 空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 幡多、鸞聖人罪名藤井善信、配所越後国 国府、此外の門徒、死罪流罪みな略之。皇帝 諱守成号佐渡院 聖代建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免、此時聖人右のごとく、禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり。  専修念仏禁止。
 1211年 39歳  流罪を赦される。       法然、入京を赦される。
 1212年 40歳   法然上人没(80歳)      法然、京都東山で没
 1214年 42歳   上野国(群馬県)で「浄土三部経」千回読もうと発願するが止める。常陸国へ。      
     聖人越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷という所に隠居したまう。幽栖を占むといえども、道俗跡をたずね、蓬戸を閉ずといえども、貴賎衢に溢る。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。此の時、聖人仰せられて云わく、「救世菩薩の告命を受けし往の夢、既に今と符合せり。」  
         聖人常陸国にして、専修念仏の義をひろめ給うに、おおよそ、疑謗の輩はすくなく、信順の族はおおし。しかるに一人の僧 山臥云々 ありて、ややもすれば、仏法に怨をなしつつ、結句害心を挿んで、聖人を時々うかがいたてまつる。聖人、板敷山という深山を恒に往反し給いけるに、彼の山にして度々相待つといえども、さらに其の節をとげず、倩ことの参差を案ずるに、頗奇特のおもいあり。よって、聖人に謁せんとおもう心つきて禅室に行きて尋申すに、聖人左右なく出会いたまいにけり。すなわち尊顔にむかいたてまつるに、害心忽に消滅して、剰後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、有のままに、日来の宿鬱を述すといえども聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿衣をあらためて、仏教に帰しつつ終に素懐をとげき。不思議なりし事なり。すなわち明法房是なり。聖人これをつけ給いき。  
         聖人、東関の堺を出でて、花城の路におもむきましましけり。或日晩陰におよんで箱根の険阻にかかりつつ、遥に、行客の蹤を送りて、漸人屋の樞にちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。時に、聖人あゆみよりつつ、案内したまうに、まことに齢傾きたる翁のうるわしく装束たるがいとこととく出会いたてまつりて、いう様、「社廟ちかき所のならい巫どもの、終夜、あそびし侍るに、おきなもまじわりつるに、いまなんいささかよりい侍ると、思うほどに、夢にもあらず、うつつにもあらで、権現仰せられて云わく、「只今われ尊敬をいたすべき客人、此の路を過ぎ給うべき事あり、かならず慇懃の忠節を抽でて、殊に丁寧の饗応を儲くべし」と云々 示現いまだ覚おわらざるに、貴僧忽爾として影向し給えり。何ぞただ人にましまさん。神勅是炳焉なり。感応、最恭敬す」といいて、尊重崛請したてまつりて、さまざまに飯食を粧い、色々に珍味を調えけり。  
 1227年 55歳         比叡山、法然の墓を壊す。
専修念仏禁止。
比叡山、『選択集』の木版を焼く
 1235年 63歳  幕府の一切経校合に参加?
孫如信誕生。
京都に帰る。 
     専修念仏禁止
 1248年 76歳  『浄土和讃』『高僧和讃』を著す 。      
 1250年 78歳  『唯信鈔文意』著す。      
 1252年 80歳  『浄土文類聚鈔』著す。
関東の門弟、幕府に訴えられる。
     
 1253年 81歳        日蓮、法華宗を開く 
         聖人故郷に帰りて往事をおもうに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の栖も跡をとどむるに嬾しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまいき。五条西洞院わたり、一つの勝地なりとて、しばらく居をしめたまう。今比、いにしえ口決を伝え、面受を遂げし門徒等、おのおの好を慕い、路を尋ねて、参集したまいけり。其の比、常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしという庶民あり。聖人の御訓を信じて、専ら弐なかりき。しかるに、或時、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、事のよしをたずね申さんために、聖人へまいりたるに仰せられて云わく、「それ、聖教万差なり。いずれも機に相応すれば巨益あり。但、末法の今時、聖道の修行におきては成ずべからず。すなわち「我末法時中億々衆生起行修道未有一人得者」(安楽集)といい、「唯有浄土一門可通入路」(同)と云々 此皆、経釈の明文、如来の金言なり。しかるに今、唯有浄土の真説に就きて、忝く彼の三国の祖師、各此の一宗を興行す。所以、愚禿勧るところ、更にわたくしなし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなわち、三経に隠顕ありといえども、文と云い、義と云い共に明らかなるをや。『大経』の三輩にも、一向と勧めて、流通にはこれを弥勒に附属し、『観経』の九品にも、しばらく三心と説きて、これまた阿難に附属す、『小経』の一心ついに諸仏これを証誠す。之によって、論主一心と判じ、和尚一向と釈す。しかればすなわち、何の文によりて、専修の義、立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなわちいまの教主なり。故に、とてもかくても、衆生に結縁の心ざしふかきによりて、和光の垂跡をとどめたまう。垂跡をとどむる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば、本地の誓願を信じて偏に念仏をこととせん輩、公務にもしたがい、領主にも駈仕して、其の霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、更に自心の発起するところにあらず。しかれば垂跡におきて、内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。唯、本地の誓約にまかすべし、穴賢穴賢、神威をかろしむるにあらず、努力努力冥眦をめぐらし給うべからず」と云々 これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法別整儀なし。ただ常没の凡情にしたがえて、更に不浄をも刷事なし、行住座臥に本願を仰ぎ、造次顛沛に師孝を憑るに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げて云わく、証誠殿の扉をおしひらきて衣冠ただしき俗人仰せられて云わく、「汝何ぞ我を忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。爾時かの俗人に対座して聖人忽爾として見え給う、其の詞に云わく、「彼は善信が訓によりて、念仏する者なり」と云々 ここに俗人笏を直しくして、ことに敬屈の礼を著わしつつ、かさねて述ぶるところなしと見るほどに、夢さめおわりぬ。おおよそ奇異のおもいをなすこというべからず。下向の後、貴房にまいりて、くわしく此の旨を申すに、聖人「其の事なり」とのたまう。此また不可思議のことなりかし。  
 1255年 83歳  『愚禿鈔』を著す。 
『皇太子聖徳奉讃』を著す。
     
 1256年 84歳  『入出二門偈』を著す。
子の善鸞を義絶する。 
     
 1257年 85歳  『一念多念文意』著す。
『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を著す。
視力低下する。 
     
 1258年 86歳  『尊号真像銘文』著す。
『正像末和讃』を著す。 
     
 1260年 88歳  『弥陀如来名号徳』を著す。       
 1262年 90歳   11月京都の善法院にて病み、28日親鸞聖人没    聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢九旬に満ちたまう。禅坊は長安馮翊の辺 押小路南万里小路東 なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾いて、同山の麓、鳥部野の北、大谷にこれをおさめたてまつりおわりぬ。しかるに、終焉にあう門弟、勧化をうけし老若、おのおの在住のいにしえをおもい、滅後のいまを悲みて、恋慕涕泣せずということなし。  
        文永九年冬の比、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、同麓より猶西、吉水の北の辺に、遺骨を堀渡して、仏閣をたて影像を安ず。此の時に当りて、聖人相伝の宗義いよいよ興じ遺訓ますます盛りなること、頗る在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して幾千万ということをしらず。其の稟教を重くして、彼の報謝を抽ずる輩、緇素・老少、面々あゆみを運びて、年々廟堂に詣す。凡そ聖人在生の間、奇特これおおしといえども、羅縷に遑あらず。しかしながら、これを略するところなり。   
   


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