住職の独り言
   
   
三河三ヶ寺めぐり

 今回は愛知県三河地方(愛知県東部)の三河三ヶ寺(勝鬘寺・上宮寺・本證寺)と浄土真宗ゆかりの場所を見学しました。三河三ヶ寺は三河一向一揆の砦となったお寺です。
 一向宗は浄土真宗の別名です。一向一揆とは浄土真宗の信者(門徒)が信仰を護るために武器を持って立ち向かったことです。
 三河では浄土真宗の門徒が多くお寺は力を持っていました。特に大きなお寺は三河三ヶ寺と言われ、徳川家康の父、松平広忠(岡崎城主)から特権を与えられていました。
 諸説ありますが一向一揆の原因として、松平家が三ヶ寺に与えていた特権を侵害したという説が有名です。
 松平家から三ヶ寺に与えられた特権というのは、何者もお寺の境内で勝手に税を取ったり、犯罪者を捕まえたりしないというものでした。
 松平家がその約束を破って、お寺から食料を強奪したり、松平家に反抗する者を逮捕したと言われています。それに怒った浄土真宗の寺院と松平家の争いとなりました。
 一向宗側は、松平家のお城である岡崎城近くまで攻め昇りました。
 三河一向一揆が起きたのは、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで打ち倒し、今川家臣だった松平家康(徳川家康)と織田信長が同盟を結んだ翌年のことです。
 社会の価値観が変わる中でお寺も渦中に巻きこまれて行きます。
 松平家の家臣には浄土真宗の門徒も多くいました。一向一揆に味方した家臣もあり、親族や同僚同士が殺し合うことになりました。


勝鬘寺 岡崎市針崎町朱印地三
 三河で一番古い真宗寺院。JR岡崎駅の近くにあります。三河一向一揆戦陣跡という石碑があります。丘の上にある大きなお寺でした。



上宮寺 岡崎市神佐々木町梅ノ木三四
 聖徳太子創建の寺院。コンクリート造りの近代的なデザインの建物でコンサートホールのようでした。
 三河一向一揆は敗北し、真宗寺院が三河地域から追い出された時期がありました。しかし、徳川家康の叔母が熱心な真宗門徒だったことから、寺院を再建させて欲しいと強く願い、再びお寺が建てることが許されたそうです。
 その叔母さん、妙春尼公のお墓がありました。
 最近お寺を囲う土塁(土の壁)が発掘されたそうです。



本證寺 安城市野寺町野寺二六
 三ヶ寺の中で最もお参りしたかったお寺です。堀と楼閣があります。城郭寺院と呼ばれる作りです。本山以外では見たことがありませんでした。
 現存の堀は内堀で、古くは外堀が巡っていたそうです。本堂は三百年前に再建され、二百ヶ寺の末寺を持つ本寺だったそうですが、今は本寺、末寺という制度がなくなっています。維持するのが大変だと思いました。隣の商店に入ったときに、お店の人が「立派なお寺でしょう」と嬉しそうに話してくれました。このお寺は、地域の門徒さんが大切に今まで守ってきたのだなと思いました。



三河別院 岡崎市中町字野添二五
 真宗大谷派の本山直営のお寺です。岡崎教区というグループの事務所もあります。
宗泉寺で使っているオレンジ色の正信偈の本は岡崎教区が作りました。
 とても良い本なので皆さんにお配りしています。
 お寺は太平洋戦争で焼失したためコンクリート造りです。
 尋ねた日はフリーマーケットが開催されて、賑やかな様子でした。



安城市歴史博物館
 複製ですが親鸞聖人の肖像画の一つ「安城の御影」が展示されているので訪問しました。
 鎌倉時代に描かれたもので「三河国安城照空房」と記され、安城という地名の最古の資料だそうです。
 親鸞聖人の肖像画足下に向かって左から小さな火鉢、猫皮の草履、桑の鹿杖。座っているものはタヌキの毛皮の敷物です。
 他宗派では寺の境内に絶対に入れてはいけない動物の肉に関係するものです。親鸞聖人は毛皮を身の回りにおいて生活していたという姿です。禁欲や寒さへの我慢で救われるのではない、仏様に救われるのだと古くから説かれている様に思いました。



西方寺 清沢満之記念館
碧南市浜寺町二-一-二
 近代大谷派の教学に大きな影響を与えた清沢満之のお寺です。高学歴で教団に関わり、変革をしようとしましたが失敗しました。
 その中で、執筆活動をしながら粗食と薄着で禁欲生活をして仏道を求めました。東京や京都を起点に活動していましたが、結核になります。
 病後は愛知県に戻り療養生活をします。その間にも妻も子も亡くなり本人も三十九歳で亡くなりました。
 多くの挫折の中でも清沢満之は現代の言葉で、仏教とは何か、救いとは何かを説き続けました。
 宗泉寺の住職も大好きな先生です。清沢満之の二畳の療養部屋やお寺を見ました。大学時代に初めて清沢満之の言葉に触れて、仏教や真宗って私のためにあるのかもと感動したことを思い出しました。



LGBT研修について
 性には外見の性・心の性・恋愛対象の性が男女二つ又は両方という人があり、LGBTの四つでも分けられないたくさんの区分があるそうです。LGBTとはレズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーの頭文字からとったものです。自分の肉体と心の性が違ったり、好きになる人が同性である人を指します。
 研修の講師は戸籍が女性だけれど男性の心を持ち、女性が好きな人でした。外見は短髪にスーツ姿です。
 講師の方がご自身の性に違和感を持ち始めた頃に、相談ができないという事が大きな悩みだったと話されていました。同じような悩みを持つ人と知り合って話ができるようになったと聞き、悩みを共有できる場の大切さを感じました。お話をしている短髪スーツ姿の人と、スライドで映された女子高生が同じ人とは思えませんでしたが、いろんな人がいて、いろんな事で苦悩しているんだと感じました。
 また、男性の聴衆しかいなかったためなのか、会場に男って最高という空気が満ちているようで、私は違和感がありました。講師の方は私以上に男らしくあることにこだわっていると感じました。どんな人でも自分に所属するものを褒められれば嬉しくなり、罵られれば嫌な気持ちになります。性別でも会社でも学校でも国でも同じです。違和感を持った私も「男って最高」という空気が嬉しい気持ちも少しありました。
 難しいですが、自分の所属・立場が正しく、他は悪だと思うのではなく、他の所属・立場を褒めあえる心を目指したいと思いました。
 

    メンタルヘルスの講座に参加    
     「心の健康を守るために」という茅ヶ崎市さくら病院で開催されていた講座に参加しました。
 外からのストレスは皆同じ刺激を受けているが、一人一人の受け止めが違っているという話しは、心によって世界の見え方が変わるという仏教の話しを聞いている様でした。
 心の健康のために最重要な事は、眠る事だそうです。充実していない一日の物足りなさ、空虚感を感じたら寝てしまう。できるなら三時間睡眠でも、同じ時間に起きてリズムを作るのが良いそうです。
 次に重要な事は孤立を避ける事だそうです。孤立すると不安になり、意欲がなくなり、死にたくなるので、疎ましくても他者と交流することが大切だそうです。また孤立している人に声を掛けることも大切です。
 他にも聞きましたが、重要なことは「寝ること」と「人とつながる」ことだそうです。何かせずとも一緒にいるだけで良いそうです。
   
     

   
    姫路 船場別院 本徳寺    
   
 春休みに兵庫県姫路の船場別院本徳寺にお参りしてきました。JR姫路駅からタクシーに乗って十分程で着きます。
 第一印象は、広大な敷地に人も車もない寂しい境内と、崩れかかった玄関や部分的に傷んだ本堂でした。
 歴史がある分、気軽に修繕出来ないのでしょうか。今まで見てきた別院とは少し雰囲気が違うと感じました。色々と歴史があるようで、説明の看板もありましたが、ひと気がなく静かな場所でした。
 別院の歴史は、五百年前の蓮如上人の頃から始まります。石山本願寺を建てた後、西国の拠点として建てられた様です。
 そして姫路城主の池田輝政(豊臣家臣)が、領内の真宗寺院は全て西派に属するように命じたため、本徳寺も西派に属し、現在は海側にある亀山御坊本徳寺となっています。
 池田氏に替わり姫路に入った本多忠政(徳川家臣)は、東本願寺の門徒であり教如上人(東本願寺初代)と親交が深かったことから、姫路城の脇に百間四面の敷地を寄進して、東派本徳寺の再建を認めたそうです。
 戦国時代の支配者の歴史によって寺がどうやって残ってきたのかが分かりました。
明治初期には学校教育にも関わり、敷地内に中学校が建っていたこともあるそうです。今も大正時代から続く、船場御坊幼稚園が近所にあるそうで、地域との関わりもうかがえます。
 第一次世界大戦中には、敷地内にドイツ人捕虜の収容所があり、捕虜が故郷を偲んで望郷塚をつくったそうです。
 二回の火災や空襲で、伽藍の一部が焼失したそうですが、今の本堂は享保三年に建てられたものだそうで、三百年もの間、姫路の門徒さんたちが守ってこられたのだと思います。
 穴の開いた床材や崩れた土壁を見ると、広い敷地と立派な本堂があっても、維持管理は大変なんだと感じました。
 名称 姫路船場別院 本徳寺
 住所 兵庫県姫路市地内町一番地

   
          
     

   
    軸(かけじく)の表装直し    
     家族の歴史を見守ってきたご本尊を永く大切にする方法が知られていないようですのでお知らせします。
 今回の表装直し(ひょうそうなおし)は、お仏壇のハセガワ茅ヶ崎店にお願いしました。高さ二十四センチの掛け軸で価格は一万五千円ほどでした。大きさや汚れ、使う生地によって価格も変わると思いますのでお店にお問い合わせください。
 浄土真宗では本尊(阿弥陀如来)、御脇掛(九字名号、十字名号、親鸞聖人絵像、蓮如上人絵像)、法名軸といった掛軸を大切にします。
 掛軸は中国から伝わってきた文化です。仏教を広める方法として仏像よりも軽くて、持ち運びでき、広げれば絵で教えが現されるという便利なものです。自宅で仏さまに手を合わせたいという希望に答えて広がりました。
 かつては、お参りする人が集まる部屋の壁に掛ければ良いということで、村に一つの御本尊を持ち回りでお飾りしたりしていました。
 そして、仏教が広まっていくと豊かな人が掛軸をおかざりする専用の場所として床の間が考えだされました。その後、仏壇という本尊専用の箱が作られ、各家庭にもご本尊が授与されるようになってゆきました。掛軸を大切にしているのは伝統があるためです。
 ご本尊は表装(ひょうそう)を新しくすることで新規の本尊を求めるよりも安価によみがえります。
 書道などをなさる方はご存知かと思いますが表装は表具師という専門の職人さんの仕事です。紙に書いたものを掛け軸の形にすることを表装といいます。
 本山からいただいたものですとご本尊は表と裏の紙からできています。表の仏画が描いてある紙、裏に本願寺の住職の名前と印のある紙があります。それによって何年前くらいに本山からいただいたものかがわかります。
 サンプルに表装直ししたものは釋彰如と書いてあります。明治から大正にかけての東本願寺住職で句仏上人と言われ書画に秀でた方でした。明治のころは大谷本願寺と名乗っていたこともわかります。
 このご本尊は地方都市のご両親のお仏壇におかざりされていたそうです。明治の頃どんな思いでご本尊を京都の本山からいただいたのでしょうか。
 汚いから新品を求める方法もありますが、父母が手を合わせていたものを受け継ぐ方法もありますのでお知らせしました。

   
         
     

   
    住職!最新喘息治療を受ける    
     住職は小児喘息(ぜんそく)から一度も治ることなく四十歳になりました。この三年は毎日ステロイド剤を飲むようになり、不眠や多食に困っていました。そして昨年の五月頃、喘息がおさまらなくなり、法事や葬儀でも十五分ほどで声がでなくなったり、苦しさから大量の冷や汗が出てくるようになりました。
 その事もあって新しい喘息治療を受けました。主治医の先生からBT治療という方法をすすめられたからです。世界でも六千人ほどしか受けていない治療だそうです。
 内視鏡を口から気管支に入れて細い気管支まで届かせて、電熱線で肺の管を火傷させるという治療です。一週間の入院ということで、ためらいもありましたが、少しでも良くなりたいと思い手術を決めました。
 一度の治療で肺の全てを火傷させると致命傷になり危険なので肺の部分を三カ所に分けて、三回の手術を一月ごと、三ヶ月に渡って肺全体の手術をしました。
 手術はお寺が忙しい八月のお盆が終わってからとなりました。全身麻酔をかけて行うということでした。
 入院当日、医師による説明がありました。先生はこの手術は初めてで湘南地域でも初めてのことだと初めて知らされました。私は「やはり経験のためにやってみたかったのか」と心配になりました。模型で練習しましたと言われ「マジか」と思いましたが、私も医師もお互いやってみましょうという感じでした。
 全身麻酔は初めてだったので、麻酔が効かなくて恐ろしい目にあわないかと心配しました。手の血管に太い針を打つため叩かれて痛いと思ったら、後は手術室の天井がぐにゃっと見えて意識がなくなりました。
 気が付くと事前の説明通り集中治療室でした。ここで一晩様子をみようということです。ICUで亡くなったという話を聞きますので一度入ってみたいと思っていました。事前の説明では場所によって携帯電話が使えます。飲んだり食べたりもできますという事だったので、監視付き個室みたいなものだろうと思っていました。しかし、思った以上に大変なものでした。
 まずは機械をたくさん繋がれて、酸素量の警報が鳴り続けているということ、とてもうるさくて寝られません。水を飲むのも許可が必要です。吸飲みに移した飲み物の量をはかり、飲んだ量も記録をとります。トイレも行けるのかと思っていましたがベッドから降りて床に足をつけるのは許可がいることがわかりました。現金の所持も許されません。携帯電話を使うなどもってのほかです。
 麻酔中に手荷物もすべてチェック済みで、財布は妻に渡されました。ICUは重傷者のための部屋なんだと心底と思いました。
 カテーテルで出るものもすべて記録されます。水を飲むのも看護師さんは目の前にいます。頼めばできますが何度も手を煩わせて繰り返すことは難しい状況です。
 ICUに入っている人は意識がないから方が多いからでしょうか、看護師さんの雑談もかなりきつかったです。カテーテルが痛かったので先生に頼んで外してもらいましたが、看護師の方は「トイレの手間が増えるんだよね」と同僚に話していたり、「何か食べてもいいってICUでできるわけない」と医師への愚痴を言っているのを朦朧とするなかで聞いて、人の話が聞けるくらい元気な人は入らない方が良いと思いました。
 また一般病棟でも困ったことがありました。以前の入院でも分かっていましたが騒音問題です。
 夜になると大声で看護師さんを呼ぶ人がいます。ナースコールを一日中連打している人、面会時間が終わって娘が帰るとベッドの枠をガンガン叩き続ける人、テレビの音を大音量にしている人。壁をへだてても聞こえてくる真夜中の騒ぎは、最初は看護師さんお疲れ様という気持ちとがありましたが、日がたつにつれてゆっくり休めないという怒りの気持ちになっていきました。
 世間でも病院でも、どこにいっても人間関係がストレスの原因なんだと心底思いました。
 三回の手術の後がなかなか回復せずに寝付いておりましたが、今は声も続くようになり、ずいぶんと楽に呼吸ができるようになったと感じております。入院中は法事や葬儀に行くことができずに、ご迷惑をおかけしましたが、日程の調整などご理解をいただきまして、ありがとうございました。
   
     

   
     住職のなじみのある名産    
     自己紹介のために私の祖父母の出身と思い出の名産のことを書きます。住職の名前は旦保心治です。旦保(タンポ)という苗字はとてもめずらしいので本名だと思ってもらえない時もあります。富山県氷見市太田旦保という地名があるので、そこがルーツかと思っています。父の父、私の祖父は富山県の上市の出身です。父の父母とは同居していたので富山県のものには触れることが多かったと思います。
最近、富山では絆創膏のことをキズバンと呼ぶとインターネットで知りましたが、子供のころ絆創膏をキズバンと言って話が通じなかった理由がやっとわかりました。薬と言えば富山の置き薬です。木やプラスチックの箱に薬が入っており、使った分の料金を後で払う方法で薬を使える便利な箱です。お腹が痛いときは赤玉という赤い薬を飲んでいました。置き薬の人が紙風船をくれたこともよい思い出です。
食べ物での思い出も多いですが、お正月のかまぼこが印象に残っています。厚め昆布がロールケーキのように巻いてあるかまぼこがうちの標準でした。回しながら昆布だけ先に食べたりしました。昆布の味が染みていておいしかったです。昆布と言えば、とろろ昆布もいつも食卓においてあり、ご飯にそのまま乗せて食べていました。それをとろろご飯と呼んでいたので、山芋のおろしたものが乗っているご飯にとろろ昆布がないので悲しんだことがあります。千枚漬けが少し厚くなったような薄切りのかぶ漬けが冬だけにあったと思いますが、京都の千枚漬けよりも薄味で好きでした。
 父の母は新潟県高田市の出身です。新潟県の人なので物産展などがあると笹団子を買ってきました。笹団子は笹の中につぶあんの入ったヨモギ餅が包まれています。笹の香りがして美味しいものでした。日がたって硬くなったら少し炙って食べても美味しいです。また、ちまきといって笹団子と同じように笹に三角形に包まれてたもち米が入っているものもありました。子供のころは笹団子だと思って開けたらちまきだとがっかりしました。餅米を蒸しただけの食べ物は子供にはつまらない食べ物でした。
 母の父は東京都台東区の浅草生まれの江戸っ子です。私の実家のある北区赤羽からは近いのでよく母に連れられて遊びに行きました。履き物が有名なので、下駄をもらったりしました。一本歯の下駄があり、つかまりながら履いてみても、座って履いても立ち上がれなかった覚えがあります。
 母の母は福井県武生市の出身です。遊びに行くといつも羽二重餅がありました。羽二重餅は福井県の名物です。羽二重の衣のようにとても柔らかく甘いお餅のお菓子です。お腹がいっぱいになるまで連続で食べたことがあります。
 住職の祖父母は富山県、新潟県、福井県の北陸地方、東京別院のあった浅草と浄土真宗にゆかりの深い場所です。
   
          
     

   
      本山の報恩講に参拝    
     十一月二十七日に京都で本山の報恩講にお参りしてきました。以前から親鸞聖人の祥月命日の法要に参拝したいと思っていましたが、ちょうど時間が出来たので行ってきました。
 報恩講は二十一日から二十八日の八日間で毎年お勤めされています。
 小さい頃祖母と一緒に本山に行ったことや、その時、参拝接待所という古い建物に米俵が積んであったって、時代劇みたいだと思いました。この度は一般の参詣人として参詣しました。本山の報恩講はお斎といいまして、本願寺境内で昼食が食べられる機会があるので、それを目指して朝の新幹線に乗りました。
 本山に着くと当日のお斎は無くなっていました。写真だけでも撮ろうと会場に向かいました。お斎会場は多くの人が並んでおり、主に関西圏の人が何ヶ月も前から予約して楽しみにしている様子でした。参詣の皆さんは、どこから来たという地名が入った門徒袈裟を首に掛けているのでわかるのです。また引率のお坊さんが地名と寺号入りの旗を持って案内していました。
 お斎はあきらめて、お昼は近所の中華料理屋で食べて午後からは参拝しました。法要は晨朝(朝)・日中(昼)・逮夜(午後)とお勤めされます。
 午後の逮夜(たいや)法要まで時間があったので修復されたばかりの阿弥陀堂を見学してきました。きれいに金箔が張り替えられて来年にはご本尊が阿弥陀堂に戻るそうです。
 パンフレットによると二時からの法要に参拝するには四十分前にはお堂に入らないといけないらしく、逮夜法要も一時間四十分間と書いてあったので合計二時間半正座なのかと恐ろしくなりました。
 時間になっても思った以上に皆さん立ったり座ったり雑談したりで、ゆるんだ空気だなと思いました。お堂の中は直径が五メートルはある柱がところどころありますので、それを避けないと法要が見えないので場所選びも悩みます。
 最初に富山県の門徒さんが自分の歩みについてお話をして、法話を久留米のご住職がしていました。富山県の妙好人(教えを喜ぶ人)の道宗のお話でした。本願寺八代住職の蓮如さんに教えを受けた道宗さんは色々な信仰の言葉を残してとしております。
 一日のたしなみには朝つとめにかかさじとたしなむべし。
 一月のたしなみにはちかきところ御開山様の御座候ふところへ まゐるべしとたしなめ
 一年のたしなみには御本寺へ まゐるべしいとたしなむべし云々。
 (訳:一日のたしなみはお朝事をかかさない 一月のたしなみは親鸞聖人の御影のあるところに参る 一年のたしなみは本山に参るべし)
 このひと月のたしなみについて近所のお寺にお参りする事を言っているのだと考えていましたが、西暦千五百年頃は親鸞聖人の御影は山科本願寺か大阪南御堂くらいしか無かったとお話していました。富山県から毎月参拝するのは大変だっただろうとお話していました。
 それを聞いて、私の寺にも親鸞聖人の御影があることは大変なことなんだと思って感動しました。時代を経て、大きいお寺から少しずつ許されて、今は小さいお寺まで親鸞聖人が来て下さるんだと思いました。
 法話が終わると結願逮夜法要です。雅楽が入って法要を盛り上げます。太鼓・笛・笙などの音楽でお坊さんが登場します。五十名ほどのお坊さんが並ぶだけでも十分はかかります。
 正信偈が勤まりますが、句淘(くゆり)といって本山の報恩講だけであがる読み方です。久しぶりにお勤めを聞いたら、そういえばこんな読み方だったなと懐かしい気持ちになりました。
 私は本山の報恩講に呼ばれるために努力をしてきました。自分から行くには届けを出せば良いのですが、本山から呼ばれるには難しいお経を読む技術を身につけなくてはなりません。何人もの先生に、何年も時間を掛けて、色々な場所でお経の読み方を習いました。熱心に勉強したつもりでした。しかし、資格だけとって一度も本山の報恩講に出ることが出来なかったので、うらやましいという気持ちと、若くないので高い声も出ないというもやもやした気持ちがしました。
 ですが、一般で参詣してみると何年も練習をせず、サボってまともにお勤めもできない自分が見えました。
 同時に、ご縁によって、ここに来ることができた人も来られなかった人も皆それぞれの場所で、出来ることをやっていたんだから、これでいいんじゃないかという明るい気持ちにもなりました。
 法要後は御俗姓という文章を聞きました。二十七日しか読まれない親鸞聖人の一生をわかりやすくまとめた文です。その文中の
この御正忌をもって、報謝のこころざしを、はこばざらん行者においては、まことに、もって、木石にひとしからんものなり
 報恩講に参詣もせず、ご恩を思う心を持っていない念仏者は木や石に等しい(人間の心を持たないモノ)という文を聞きました。
 お寺で報恩講を勤めているからもう報恩講は十分だろうと思っていました。ですが、何年も本山に参拝したいと思いながらお参りが出来なかったことを申し訳なかったなという気持ちで思いがけず涙がでました。
   
       
     

   
     名古屋御坊(東別院)参拝    
      子供の夏休みが始まってすぐ、以前から行ってみたかった愛知県の名古屋に行ってきました。
愛知県は古くは一向一揆のころから浄土真宗の教えが深く根差した地域です。宗泉寺の御門徒にも名古屋出身の方は多くいます。関西と関東の間で独自の文化を持っていることも有名です。
 午後七時に新幹線で名古屋駅に着きました。駅ビルで早速、味噌カツを食べました。東海地方といえば色の濃い八丁味噌が有名です。八丁味噌は大豆から出来た味噌で、関東では赤出汁でいただくことが多いと思います。子どもは嫌がるか心配しましたが、味噌カツもドテ煮も美味しいと言って食べていました。
 次の日は名古屋別院のお朝事(毎朝のお経)に向かいました。名古屋別院は東別院とも呼ばれ、地域の方には御坊さんと親しまれているようです。元は織田信長の父の居城のあった場所を尾張藩主の徳川光友によって寄進されてお寺を建立したそうです。
 地下鉄に乗って東別院駅で降りました。別院が駅名になっているなんて有名なんだと感心しました。降りてすぐの場所にあると思っていましたが、敷地が広いため本堂に着くまで十分近く歩きました。門をくぐると本山の東本願寺と同じぐらいの大きな広さがある様に見えました。金仏壇で有名な名古屋教区の別院はどんなにすごい御荘厳なんだろうかと楽しみにしていましたが、工事中のため見ることができず、残念でした。本堂は幅二十間はありました。その端の二間程の所でお朝事をしているようです。五分遅刻して到着すると御法話が始まっていました。開始の時間を間違えたかと思いましたが終わった後で確認すると、正信偈をとても早く読む舌々(ぜぜ)という読み方で本当に五分で終わっていたことに驚くと同時に、本山でも読まなくなったお勤めの仕方だったので聞いてみたかったと思いました。毎日御法話があるということに、とても感心しました。法話はご法事で戦争で亡くなった弟さんの姉が七十年たっても悲しいと言っていた、名古屋の空襲もひどかった、戦争は嫌だ。仏教徒は戦争に賛成してはいけないというお話でした。仕事前の作業着の方が数人お参りに来ていたことも感動しました。
 この度も西本願寺の別院が近くにあるという事で街を歩いて参詣に行きました。名古屋なら喫茶店でモーニングを食べようと店を探しながら歩きましたが見当たりませんでした。そのかわり仏具屋さんが多くありました。瓔珞専門店、漆の店、金細工の店など仏壇に関係のある小さな工場がたくさんありました。仏壇屋さんは、やはり金仏壇が多くならんでいて浄土真宗の人が多いのだと思いました。後で知りましたが大須の仏壇通りと言われている場所らしいです。
 その後、名古屋城に行きました。コンクリートで作られたお城で、中は資料館になっていました。昔の名古屋城は第二次世界大戦中、金のシャチホコだけでも焼けないように屋根から降ろそうとしました。外壁に足場が組まれたところで大きな空襲があり名古屋の人たちの願いはかなわず、名古屋城は金シャチと焼け落ちたそうです。
 別院の工事は来年の春には終わっているようですので、ぜひ皆様も名古屋御坊にお参りしてください。
   
           
         
     

   
     北陸の別院探訪    
         
     北陸新幹線が開通したこともありまして北陸に家族で行ってきました。春休み中だったので新幹線の座席も一人ずつの席しか取れないほどの人気でした。

■金沢
 初めに金沢駅から真宗大谷派金沢別院にお参りに行きました。金沢駅から徒歩十分程で到着、大きな本堂が目印になります。駐車場がとても広く入ってよいのか不安になりました。鉄筋コンクリート造りの大きな本堂に入ると静かで天井が高く肌寒く感じました。
 冊子が売っていたので本堂の中の案内所の方に会計してもらいました。その方に観光だというと日蓮宗の忍者寺という所へ行くと子供が喜ぶでしょうと地図を書いてくれました。
 武家屋敷を左に犀川を渡ると説明されました。土地勘がなくわかりませんでしたが、もてなしの気持ちは伝わってきました。せっかくなので隣の会館にもはいると、受付の方が何もない建物だけど納骨堂がありますといって案内して下さったのでお参りしてきました。他には研修会などで使う部屋や教務所がありました。
 正門から出ると目の前に懐かしい雰囲気の商店街があり、そのまま徒歩五分ほど細い道を通って西本願寺の別院にも行きました。
 こちらの別院は木造の時代を感じる建物でした。建物の中はひと気がなく、ひっそりとしていましたが、CDやテープの貸し出しがあり、宗泉寺でもやってみようと思いました。
別院でお参りをした後は、金沢城、兼六園、妙立寺(忍者寺)にいきました。二十一世紀美術館、鈴木大拙館はお休みでした。
 電車で一時間、茅ヶ崎から東京の時間で富山に行けるようなので、その晩は鈍行で富山駅に向かい宿泊しました。
   
           
      ■富山
 富山は街に円を描くように路面電車が走っており五分に一度は来るので便利な街だと思いました。富山別院は富山駅からは徒歩だと二十分位はかかりそうな場所でした。
富山別院は金沢別院よりは小さい建物でした。雪囲いの場所が広くとってあるのが印象的でした。お朝事に間に合うように七時に行きましたが、時間になっても全く始まらないので時間を間違えたと思いました。ですが、七時半になると子供が十人程来てお勤めが始まりました。お坊さんになる研修があったようで、それに合わせて予定を変えたようでした。
 寒い中三十分待ちましたが、椅子席だったので助かりました。また大きなストーブが置いてあり北陸に来たなという感がありました。本堂の欄間の彫刻がとても立派だったことが印象深いです。富山教区の書籍も見たかったのですが朝八時からでは閉まっていました。
 続いて西本願寺の別院にも行きました。五重の塔が末広がりになったような不思議な鉄筋造りの建物で驚きました。お堂は電気が付いていませんでしたが、お参りさせていただきました。本堂の周りに別院の物語が絵と文章で解説してあったのでとても良い印象でした。東西の別院は富山城の堀を埋めて現在の場所にお寺を建てたようです。

まとめ
 北陸は福井県の吉崎に本願寺八代目住職の蓮如上人が御坊(お寺)を建てたことから信者を増やし、石川県の富樫家を滅ぼして、百姓の国と呼ばれる統治者のいない国をつくりました。百年続きましたが織田信長の軍勢によって滅ぼされたのが北陸の歴史の一部です。金沢城も金沢御坊があった場所に建てられたとも言われています。
 各別院は金沢城、富山城のすぐ隣にあり、浄土真宗の寺院や信者の動きがすぐにわかるようにしていたようです。全国で一向一揆をおこしていたことから、要注意集団だと統治者からは考えられていましたが、それだけ不満や不安があったのでしょう。
 以前から行ってみたかった北陸に旅行ができて嬉しかったです。新幹線も開通しましたので、一度お参りに行ってみてください。食事もおいしかったです。
   
     

   
親鸞聖人七百五十回忌
湘南組団体参拝記
 五月に親鸞聖人七百五十回忌法要に京都まで参拝してきました。近隣の四寺合同の参拝で四十名の参加者と行ってきました。
 当日の京都は雨天でとても寒い日でした。本堂ではひざかけが配られましたが、とても間に合いませんでした。
 始まってみると震災の影響でしょうか、団体で参拝する二時間半の予定が一時間半になっていました。
 宗務総長、御門首の挨拶に続いて法要、法話がありました。

■帰敬式
 宗泉寺から帰敬式を受ける門徒さんがいたので、法要後、待ち時間を挟んで親鸞聖人の木像が安置されている御影堂に移動し、帰敬式を執り行いました。
 今回の参拝で私は帰敬式が一番印象に残っています。二年前から参加者の募集をして、法名は何がよいかを一緒に考えて、本山での帰敬式もとても喜んでもらいました。座った場所がちょうど親鸞聖人像の正面だったことも感動した理由のひとつだったようです。私は宗泉寺で初めての本山での受式だったので感無量でした。
 夕食は湯葉のお店でとてもおいしかったです。厚木の長徳寺さんの門徒さんたちともご一緒でした。皆さんとお話をしながら、京都らしいものをいただいて、楽しい時間でした。
■比叡山念仏三昧堂
 次の日は前日とはうってかわって、暑いような晴天でした。この日はほとんどバスで移動しました。
 比叡山で根本中堂を参拝して、念仏三昧堂に移動、親鸞が修行した場所を見学しました。
 念仏堂は四間四面の建物で、建物の中は板張りの廊下と小さい厨子のみです。廊下は一間ほど幅がありロの字になっています。  その周りで念仏をとなえながら歩き続けるという修行をするための建物で、今でも比叡山で使われているそうです。
 修行者は寝ないで念仏を称えながら堂内を周り続けます。会話も一切禁止。食事をとるときだけ座っても良いことになっていて、それ以外は南無阿弥陀仏ととなえて歩き続けるというものです。親鸞もここにこもって修行をしていたといわれています。
 親鸞の身代りになったという蕎麦喰いの木像という親鸞像も見せてもらいました。
 比叡山のお坊さんは、ここはいろんな宗派の開祖が修行をしたところですとお話されていました。
 下山後は、京都の博物館で開催中だった親鸞展へ。一時間くらいの予定で、混んでいるなかを少し急いで見るような感じでした。

■ 奈良の叡福寺
 次は奈良県の磯長(しなが)のお寺です。聖徳太子建立の寺と伝えられています。聖徳太子のお墓に親鸞聖人も十九歳の時に参拝しました。その時に「あなたの命はあと十年です。」と夢の中で言われ、それ以来更なる修行に励むこととなりますが、十年後に比叡山を降りて念仏の道を選ぶこととなります。
 その晩は、有馬温泉で宿泊しました。さすがに有名温泉地だけあって、とても良いお湯でした。旅館の宴会場で、皆でお酒や食事を頂きながら、歓談して過ごしました。

■大阪の難波別院
 三日目は難波別院を訪ねました。別院では大阪城の場所にあった石山本願寺のお話を聞きました。松尾芭蕉がこの場所でなくなったそうで、全く知らなかったので驚きました。
 千人は入れるホールがありいろいろなイベントをしています。活気があって、素晴らしいことです。難波別院のある船場という場所は、大阪ではオフィス街のど真ん中だそうです。
 昼食後は石山本願寺があったとされる大阪城へ移動しました。大阪城の中は鉄筋造りでエレベータまでありました。
 新幹線で大阪駅から帰ったのですが、参加の皆さんは疲れた様子も見えず、帰りの車内でも沢山お話をされていました。
 宗泉寺初めての団体参拝、しかも七百五十回忌の大イベントで、直前まで地震の影響でどうなるかといった心配もありました。しかし無事に終わり、参加者の方から行って良かったという言葉も頂いて、本当にほっと一息でした。



福島のこと
 二ヶ月前のことになりますが、昨年三十八歳で亡くなった先輩の一周忌に福島県白河市に行って来ました。
 その日は新幹線が復旧して二日目で、乗客は少ないように思いました。桜の季節でしたが、東日本地震の後は観光客が全く来なくなり、いつもは観光バスがたくさん来ているという桜も先輩の両親と私の三人だけで見ることができました。
 地元では有名な神社にも連れて行って頂きましたが、鳥居は壊れて柱だけになり、灯籠もたくさん並んでいる内で形が残っているのは三つほどでした。
 ご法事は、ゆっくりと先輩のご両親と故人の話ができたので、とてもうれしかったです。
出発前に放射能は三十キロ圏内が危険だというニュースがあったので、白河市は安全だろう出発しました。帰ってみるとホットスポットといって地形や天候で放射能がたまりやすい場所があるということをテレビで知りました。テレビでは白河市は地図が赤く塗られており放射能が強いと解説されていました。
 大地震の後、福島県の原発の事故の時にだんだん状況が悪くなるにつれ、東京電力の職員が手におえないと、原発を作った会社の人が福島に呼ばれていました。
ご法事をした喪主さんの勤めている会社もあります。今後の状況が悪くなれば原発に関わっていた人の範囲を、少しずつ広げて事故のあった原発に集め始めるのではないかと考えました。
 仏教ではあらゆるものは縁でつながっていると説きますが、人ごとに思っていた事、誰かが責任を取るだろうということが、いつか自分自身か、大切な人の番になるかもしれないと想像してとても怖くなりました。
 戦争もまた同じように関わりの中から人々が巻き取られていくことなのではないかと感じました。



地震のこと
 四月も半ばとなり、茅ヶ崎はすっかり春めいてきました。
 三月十一日の地震から二ヶ月あまりが経ちますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 宗泉寺では庭の灯籠が倒れて壊れた以外、大きな被害はありませんでした。
 余震もおさまり、計画停電もない日が続き、日常が戻ってきていることと思います。
 計画停電の中で火葬場が動かなかったり、ご法事に向かう国道一号線の信号が消えていたりと、当たり前の日々が、当たり前では無いことを実感した日々でした。
 しかしながら被災地では、まだまだ大変な日々が続いていることをニュースで見ます。
 岩手県では、大谷派のお寺も津波で流され、地元の方とボランティアの方が、瓦礫やドロの中から仏具を探し出したり、炊き出しをしているというお話も聞いています。
 お寺は被災状況によって避難所として使われたり、遺体安置所としても使われたそうです。
 福島県の原発のニュースも、日々テレビで流れています。
 落ち着いて、しっかり考えて行動できることの大切さを思うと同時に、自然の猛威の前になすすべもない恐ろしさがあるのだろうと思います。



七百五十回忌御遠忌のこと
 四月二十六日に京都の本山(東本願寺)に行って親鸞聖人七百五十回忌御遠忌に参拝してきました。
 この度は、普通の人がふらっと参拝できるのか調べるために、予約なし私服で行ってみました。
 一時の法要に間に合うように茅ヶ崎駅を出て、十二時過ぎに京都駅に着きました。
 早速本山に向かいます。本山の周りには五色幕がたくさん立っていてにぎやかな雰囲気でわくわくします。
 境内にはいると団体で参拝に来た方々が大勢待ち合わせをして賑やかです。
 阿弥陀如来が安置されている阿弥陀堂は、屋根の工事のため、囲いがかぶさっています。お堂は大きなスロープが造られていて車椅子でも参拝できるように改築されていました。
 親鸞聖人の木造が安置されている御影堂は一時から法要のため、たくさんの人が椅子に案内されています。
 二年前の事前説明では予約なしの人は席が無いと言われていたので、座る場所が無いのか不安でしたが、一般席という場所が作られていたので安心して座れました。
 境内には御遠忌限定のお土産売り場と郵便局出張所も造られていました。
 法要は門首の挨拶や法話の後に正信偈が勤まりました。法話や挨拶は地震のことを題材にしたお話でした。
 東本願寺の御影堂は千畳敷といわれる日本一の木造建築です。予約無しの一般席は縁側に座ることになるようで、ずっとテレビでの中継を見ての参拝でした。
 正信偈は難しいお勤めでしたが隣の女性は、本もないのにしっかりお勤めができていて驚くと同時に感動しました。
 予定では二十六日は音楽法要といって合唱があると聞いていたので楽しみにしていたのですが、地震のため予定が変更になったと隣の女性に聞いてわかりました。女性は九州から来たが今朝、音楽法要の中止を知ったらしく残念がっていました。
 法要後は境内のお土産屋さんで七百五十回御遠忌グッズを買って、阿弥陀堂の屋根瓦修復の工事現場の見学と展示会を見てきました。
 後は京都のお土産を買い、少し早い夕食を食べて新幹線で小田原に帰りました。家に着いたのは夜の九時くらいでした。
 日帰りもできますので五十年に一度の大法要に是非ご参詣下さい。五月十九日から二十八日までは法要をしております。



先生のこと

 先日、住職のお経の先生だった法隆英明師が亡くなりました。
 師は空手が好きで若い頃は道場に教えに行っていた様です。そんなこともあってか後輩への指導を熱心に勤めていました。
 僧侶になった時、素人同然の私にゼロから声明(お経の読み方)を教えていただきました。二年間、週に一回二時間の長い時間見ていただきました。
 私は体が弱く喘息があるので、声を使う声明も上手くならないと思っていました。
 ですが師は「喘息だからいいんだ。上手になる。君は声がいい」と褒めてどうにか続けさせてくれました。
 本当に声が良いかは全く分かりませんでしたが、師の熱意に私も声明が楽しくなっていきました。
 私も先生に教わったことを少しでも皆さんにお返しして伝えてゆきます。



葬儀に参列して
 
 福島県白河市に住んでいる大切な先輩が亡くなったとの知らせがありました。
 出発までしばらくソワソワしていたが、その頃使ったテントを立ててみたりしました。
 子どもは喜んでいましたが、私は大学生活で世話になったことを考えたりしました。そうした一見関係ない様なことも私には大切なタイムマシンになりました。
 お寺の予定がありましたが先輩の葬儀に参列したかったので、すべて人に頼んでしまいました。
 茅ケ崎から福島県まで、はるばるシフォンケーキを持って行きました。これも京都で私が先輩と食べたケーキでした。ケーキ屋の店も場所も違うけれど懐かしかったのです。
 参列の人が持ってくるお供えも色々な背景があって選んでいるのだと身にしみました。
 会場につくと祭壇に写真があり本当に先輩の葬式が始まるのかと寂しい気持ちがしました。 ご両親は一人息子をなくして疲れている様子です。
 私は先輩の顔を見てもそんなに悲しくなかったです。なぜなら先輩に見えなかったからです。他の参列の人は昔と変わらないと言っていました。しかし花に包まれ、額に三角の布までしているこの人は何だろうという気持ちでした。
 その後は親族のほとんどが帰るまで、大学生の時どんなバカなことを一緒にしたのかを話していました。両親はとても喜んでくれました。
 次の日は火葬があってから葬儀になるという事で火葬場まで行きました。火葬場での窯入れの時が「お別れだ」という気持を一番強く感じ涙がでました。
 その後は四十九日も親族でするということでした。近頃は葬儀には参列できても親族以外が法事に呼ばれることはあまりないように感じます。
 これを契機として大切な方を亡くして傷ついた心を話せる会をお寺で作りたいと思っています。お手伝いいただければ幸いです。



親鸞聖人の寺

 栃木県真岡市高田にある真宗高田派の専修寺に行ってきました。親鸞聖人は越後(新潟県)への流罪の後、五年で罪を許されました。その後親鸞聖人は南に向かい茨城県を中心に教えを広め始めました。
 親鸞聖人が北関東での生活をしている中で、真岡城主の大内氏が真宗の教えに帰依をして是非お寺を建てて欲しいと願ったことから専修寺が建てられました。
 私は今まで親鸞聖人は寺院を建てずに布教をして生活をしていたと思っていました。ですから、親鸞聖人が建てたお寺があったことに驚きました。本願寺は親鸞の親族が住職をしているお寺ですが、親鸞聖人没後に建てられたお寺です。京都にある両本願寺の敷地も親鸞没後二百年以上たってからの場所です。
 真宗高田派の専修寺は親鸞聖人が望んで建てた唯一のお寺だそうです。本願寺は親鸞聖人の教えを血脈(親子)で伝えています。しかし高田派は親鸞聖人の直弟子が受け継いだ宗派のため、教えが人のつながりで代々伝えられていることを誇りにしているように感じました。
 親鸞聖人の真筆の文章は高田派がもっとも多く所有しています。真宗高田派の本山は江戸時代に三重県に移ったため、今では栃木県の専修寺は旧本山と呼ばれているそうです。
本願寺は八代目の蓮如上人が活躍するまで無名の寺でした。それまでは、各地に建てられた専修寺が真宗の教えを聞く中心になっていた様です。その後力を強めた本願寺に宗派替えしたお寺も多かったようです。
 他の宗派を見ることで真宗の歴史を知り、大谷派についても考える大切な機会になりました。
後日談
 親鸞聖人がお寺を造っていたということを知らなかったので非常に驚きました。本願寺の流れでは、御伝鈔という親鸞聖人の生涯を綴った伝記が残っています。その内容には専修寺のことは一切触れられておりません。本願寺が親鸞の正当な流れだという事のために消されたのでしょうか。

御影堂
 親鸞像が安置されています。

阿弥陀堂
 小さめのお堂です。善光寺由来の阿弥陀如来像が安置されています。
中には入れません。


御廟 親鸞聖人のお墓です。

栃木県芳賀郡二宮町高田1482
専修寺



国府津の御旧跡

 小田原市の国府津駅の近くにも真楽寺という親鸞聖人が立ち寄った場所(ご旧跡)があります。国道一号線に面したそのお寺は東海道を旅する人々の参詣の要所であったようです。
元は聖徳太子の時代に建てられた天台宗のお寺だったそうです。そこの住職が親鸞聖人の教えに感銘を受けて浄土真宗のお寺に変わったそうです。伝承では親鸞聖人が関東を巡っているときに、七年間お過ごしになったと言われています。
 国府というのは国の大切な役所が会った場所で、国府津という名前から国営の港があったのではないかと言われています。
 伝承になりますが、その港に中国からお釈迦様にいわれのある石が船で運ばれてきました、ところが、港に着く前に船が沈んでしまい石も沈んでしまったそうです。そして何十年と時間がたち、人々はその石のことを忘れたころ、親鸞聖人が海岸で大きな石を見つけ、そこに指で帰命尽十方無碍光如来(南無阿弥陀仏の意味)となぞったそうです。すると大きな硬い石に見る見る聖人が指でなぞった通りに名号が刻まれたそうです。その石は帰命石と呼ばれ真楽寺の宝物となっています。
 また親鸞聖人が小さな家に住んで教えを説いたといわれる勧堂(すすめどう)という史跡も残っております。
 国府津駅が整備された時にお寺を移築したため敷地は小さくなったそうです。江戸の頃の観光案内を見せて頂きましたが国府津駅山側が大きなお寺だったようでした。
 口伝なのですが、新潟県の上杉謙信が小田原城の北条氏と戦争をした時に、真楽寺を中心に真宗寺院は上杉勢に協力して寺院の敷地を提供したそうです。越後(新潟県)の兵士は門徒が多かったことでしょう。
 その後、上杉勢が敗北し撤退しました。上杉勢に味方をした浄土真宗は相模国で五十年間廃止されるという時代を経験しました。ですから古い真宗寺院はしばらく他国に避難するか、宗派をしばらく変えて存続が許された様です。そのまま戻らなかったお寺も多かったことでしょう。そのような経緯から神奈川県では浄土真宗の寺院が少ないそうです。
後日談
 北条氏との関係については、本願寺は甲斐(山梨県)の武田氏に娘を嫁がせるような間柄であったようです。このことから武田氏と争っていた北条氏が本願寺の寺院を敵国スパイと見ていたとも考えられます。その後、北条氏と武田氏の争いが治まり真宗寺院が看板を掛けられるようになったようです。


神奈川県小田原市国府津3−2−22
真楽寺


本堂の左に帰命石

江戸のガイドマップの真楽寺(信楽寺)
山上にお堂
川端に勧堂があります。



あしながレインボーハウス

 五月下旬に教団の研修会で東京都にある「あしながレインボーハウス」に行ってきました。
 最近お葬式が終わった後、とても心残りになっていたのが、母子家庭になったお宅の子ども達でした。私も何か力になれないのかと思っていたときだったので参加しました。
 あしなが育英会は経済的な救済を中心に、理由を問わず父母の亡くなった学生に奨学金を無利子で貸しているそうです。
 レインボーハウスというのは建物の名前です。施設は二つの機能があり、一つは大学生の寮になっています。奨学生が月一万円ほどで借りられるそうです。お金の都合で学ぶ機会が奪われることを防ぐためです。
 もう一つは小中学生が二泊三日で泊まれる場所です。父母を亡くした子どもが集まって、遊んだり話したり、同じように父母を亡くした先輩の姿をみて、不安やこだわりを共有するために造ったそうです。
 驚いたことに国からの補助は受けておらず、募金で運営されているそうです。
 暴れたい子どもはサンドバッグのある火山の部屋、お絵かきが好きな子はアートの部屋、お話がしやすい部屋等が用意されており、研修のお坊さん達も火山の部屋が欲しいと言っている方が多かったです。
 私の今の悩みは共感です。ご遺族は、それぞれが違った状況で悩んでいます。ご法事の席で「私と同じ様に子どもを亡くした人を知りませんか」と聞かれることもあります。
この研修に参加して、お寺で同じような状況にいる家族を結びつけることができないだろうかと考えました。

火山の部屋です。
サンドバッグがぶら下がって、
男女共に大人気!

みんなでヌイグルミを
抱えながらお話を聞いています。



入院しました

 京都東本願寺の境内には阿弥陀堂と御影堂という二つの建物があります。阿弥陀堂はご本尊にお参りするお堂。御影堂は親鸞聖人にお参りするお堂です。数年前から始まった御影堂の瓦の葺き替えも来年には完成するであろうと聞きました。
 今御影堂は工事中で一切の行事は阿弥陀堂で行われています。ですから今年で阿弥陀堂での報恩講はしばらく無いだろうと思っていたので、一度お参りに行きたいと思っていました。
 そういう思いもあって本山にお参りを体調不良の中、京都に日帰りでお参りしました。
 次の日、病院に行きましたが持病の喘息が出ており、いつもの二倍の点滴をしましたが治まりませんでした。いつもより薬が効きにくいなあとは思っていました。
 「入院して様子をみますか?」と提案されたので、明日は仕事が無いし入院したこと無いから体験してみようという気持ちで、「お願いします」と言いました。
 茅ヶ崎市立病院に行くと、「一週間は入院です」といわれて土日の御法事に行けないのかと思いましたが、今更止めるとも言えずベッドに行きました。
 結果を言えば三泊四日で退院できたのですが、色々なことを考えるきっかけになりました。
 点滴をして寝ているだけなので初めの二日間は世間の仕事がとても気になりましたが、どうにか人に頼めそうだとわかると落ち着いて体を休めました。
 ですが「一生懸命に仕事をやっていたけれど、いくらでも代わりがいるんだ」と思うと住職も会社員も代わりがありません。
 入院は現代の出家だと思いました。今まで何をやって来たか、外でどれだけの人物だったのかは病院では関係ありません。
 私は聞法会(お寺で聞いた話)を思い出したりすると気が楽になりました。思い出したことを要約して書きます。
 「病人は休むのが仕事だ。今できる仕事をしましょう。」
 「自分でなければできない仕事を見つけましょう。それは自分を見捨てないことです」
 「天命に安(やす)んじて 人事を尽くす」(帰る場所があるから全力で向かっていける)
 ご縁があった皆さまが弱っている時に仏教の話を思い出していただけたら嬉しいと思っております。
後日談
 退院後しばらくは声が出なくて苦労しました。体力が落ちているので運動しなければと思っていますが、今のところやっていません。入院中は食事だけが楽しみでした。
 市立病院の外壁に描かれたレリーフがキリスト教のアダムとイブやリンゴ、鳩といったものでした。仏教のレリーフはダサイのか、それとも死を連想するから病院ではダメなのか、世間での仏教のイメージをあらわしていると思いました。



箱根の御旧跡

 神奈川県の御旧跡を研修で数カ所まわったので報告します。御旧跡とは親鸞聖人の伝説が残っている場所のことです。
 今回は箱根の芦ノ湖周辺について報告します。
 箱根は関所が有名です。関東を出る門と考えられていたようです。江戸時代には「入り鉄砲に出女」といって銃の持ち込みと女性(「大名のつれあい」か「遊女」の説あり)の箱根越えは厳禁となっていました。関東から京につながる東海道も箱根を通ります。
 七五〇年前、平安時代から鎌倉時代にかけて生きた親鸞聖人は、今の新潟県に流罪になり罪をゆるされた後、南に向かって旅をして茨城県に拠点をもうけて暮らしていました。
その後、親鸞聖人は、鎌倉が政治の中心になっていたこともあり今の小田原市国府津に数年間住んでいたようです。国府津とは国の港があった所で交通の便もよく、京からも鎌倉からも情報が流れてくる場所だったようです。そこから関東地域に船や徒歩で教えを伝えて生活していたそうです。
 六十三歳になった親鸞聖人は生まれ故郷の京都に旅をすることになります。理由については様々な説があります。著書を完成させるためという説もありますが、鎌倉幕府が念仏禁止令を出したという事も関係しているといわれています。
 そこで親鸞聖人が関東から京都に向かうときに箱根を通る訳です。
 本願寺に伝わる『親鸞聖人伝絵』という絵巻物に箱根のエピソードが出てきます。
 親鸞聖人が箱根山を越えようとしている内に夜半になってしまい、箱根権現(今の箱根神社)の前を通りかかりました。そこで箱念権現の住職が話しかけてきました。住職は夢に権現様が出てきて「今から通る人は私の尊敬する客人だから、しっかりおもてなしをして欲しい」と言われたので、外に出てみたら貴方がいました。どうぞ休んでいってくださいと言いました。そして親鸞聖人は箱根権現で丁寧なおもてなしを受けました。以上のような伝承が残っています。
 箱根権現は神仏習合の寺で真言宗東福寺という寺院でした。明治政府の廃仏棄釈(仏と釈迦をすてる)という国策によって箱根神社という名前に変える事で現在に残ることができたそうです。
 しかし明治当時の住職の住まいは富士屋ホテルの物になり移築、地所は岩崎氏(現在の山のホテル)に売却され、仏像や経典は芦ノ湖に投げ込まれたそうです。
 その廃仏棄釈の時に、親鸞自作の像と伝えられた「箱根のご真影」という木像、また阿弥陀如来の像を真宗大谷派萬福寺が譲りうけたそうです。当時は箱根権現の境内には親鸞堂という親鸞自作の像と伝えられる木像が安置してあり、お参りできたそうです。
 そして親鸞が関東の弟子達と別れた場所とされる笈平(おいのだいら)という場所があります。そこには親鸞聖人の碑がたっています。
 関東を二十年歩いた親鸞聖人と、別れを惜しみ箱根までついてきた弟子の性信と蓮位の二人と別れた場所だそうです。そこの碑には詩が刻まれています。

  やむ子をば あづけて帰る 旅のやど こころはここに のこりこそすれ

 私は東海道を旅する親鸞聖人を慕って沢山の人が親鸞堂にお参りをしていたからこそ、他宗の寺地に親鸞聖人のお堂が建っていたのだと思います。神奈川県に越して四年になりますが、歴史を知ると今まで観光で知っていた箱根と違った見方ができて面白いとおもいました。


後日談
 箱根の御影は旧浅草別院の展示会に貸したのち、帰ってこなくなったそうです。今も浅草に安置されているそうです。
 現在、箱根神社には旧親鸞堂の場所に太平洋戦争供養という「たくましい体の胸を張った親鸞」の銅像が建っています。以前見たときは違和感がありましたが、歴史を知ってみると門徒に親鸞が愛されている一つの形なのかなと感じています。



台湾のお寺巡り

 二月の上旬に中華民国の台湾に行ってきました。ちょうど旧暦の年末に当たる日でお寺のお参りも活気がありました。
 いくつかのお寺とお宮を回るうちに気づいた特徴を述べてみます。
 建物の配置は二重屋根の本堂に当たる建物が中心にあり、その周りを廊下と建物が囲っている形になっています。
 本堂の周りにある建物ごとにも、安産の神様、学問の神様などがまつられています。ひとつのお寺の敷地内に三十歩ごとに神様があって巡礼する形になっていました。
 詳しいお参りの作法はわかりませんが、長いお線香を数本持って、色々な方向にお辞儀をしていました。
 台湾は風水や占いが非常に尊重されているらしく、宗教施設はお願いをする場所として大切にされているようです。
 また、柿の種の様な形の赤い物を二つ投げて、それが両方が同じ面ならイエス、違った場合はノーになるという道具も置いてありました。お参りに来ている人は心の中で相談事を念じて、神様に是非を聞くという道具らしいです。
 大きなおみくじの棒もあり、お参りした後に棒を取って書いてある数字の紙を見に行くと神様の指示が書いてあるそうです。
 お正月にはお寺にお供えしてお参りした食べ物を持って帰って、家族みんなで食べる習慣があるそうです。
 またお寺では紙のお金(偽物)が売っていて、それを燃やすことで亡くなった人に送金できる様になっています。台湾では亡くなった人もこの世と同じ生活をすると考えるので、お墓も二坪ほどの家の形をしていました。紙で出来た車や衣類やパソコンも燃やしてあの世に送るそうです。
 お願い事がかなったらお礼参りにお花を持ってくる様です。
 台湾は島国なので海の女神の信仰があつい様でした。どのお寺も活気があって若い人もたくさんお参りをしていました。
 日本の仏教は中国から伝わってきた教えなので、日本の宗教に大きな影響を与えたことがわかりました。
 あるお寺では経典やお経の解説書、お話のテープなどを自由に持って行っても良いスペースがあって感心しました。
 日本統治時代に真言宗が建てた寺がそのまま使われている所もあり、弘法大師が大切にされていました。
 そこにいたおじさんは日本語で解説してくれました。長い歴史を感じる旅行でした。
お寺外観です。 お堂の飾り方は
にぎやかです。
神様の意見を聞く
道具です。
おみくじ
お供え お札を焼く所
お寺の中にあります。
弘法大師です。
後日談
台湾は占いが非常に盛んで生まれる時間と日にちが重要に思われていそうです。
ですからほとんどの人が帝王切開によって占いで決められた時間に生まれるそうです。
また結婚式も占いで時間が決まるので、朝6時とか夜十時と言われたら、その時間に始めるそうです。
日本人相手の占い街もあり、とても多くの人が占ってもらっているようでした。
占いを信じない人もいるそうですが、信じている人をバカにすることは無いそうです。



新潟の真宗

 五月二十五日に新潟県高田で「親鸞聖人ご流罪八百年法要」があり、参拝してきました。
 湘南地域のお寺の若手が集まって前日から車で乗りあって新潟に行きました。
行き道は長野の善光寺に参拝に行きました。善光寺参りは有名です。あまり知られていませんが、親鸞聖人も善光寺にお参りをしています。境内には親鸞聖人の銅像も建っています。
善光寺のご本尊は「三尊阿弥陀如来」といって、南無阿弥陀仏の信仰が大変盛んであったことがうかがえます。親鸞聖人が教えを説いて旅をしていました。その中でも南無阿弥陀仏を大切にしている人たちが、親鸞聖人の教えにうなずいたのだろうと思いました。
 善光寺には「お戒壇めぐり」といって、内陣の下に階段で下りて真っ暗な中を手探りで進む所も見てきました。奥に進むと秘仏となっているご本尊の真下に行けるらしいです。中は真っ暗でどこにいるのか分かりませんが、手探りで探すと「極楽の錠前」という錠前の形をしたものがあり、そこがご本尊の近くだそうです。三百年前の人も同じように真っ暗な中で手探りしていたと思うと、人間は変わらないのだと思いました。そして、外に出るときに光が見えると安心することに気づきました。
 それから新潟県妙高にある赤倉ホテルに行きました。赤倉ホテルは真宗教団では有名なホテルで一度行ってみたいと思っていました。なぜ有名かというとホテルのラウンジに大きな金仏壇があってお参りができるからです。温泉に入って朝にはお勤めができるので、お寺の旅行に多く使われているようです。
 翌日は親鸞聖人の旧跡を巡りました。親鸞聖人は京都で法然上人の弟子となって教えを聞いていました。念仏の教えが盛んになると、既存の教団から法然は変な教えを広めているという非難が起こるようになりました。専修念仏(念仏だけでよい)の教えを支持する権力者もいましたが、後鳥羽上皇の家に仕える女性が出家したことをきっかけにして、念仏禁止が決まりました。
歎異抄には「法然聖人ならびに御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり」と記録されたように専修念仏は強く弾圧されました。その流罪の御弟子の一人が親鸞聖人であった訳です。そして流罪の地として新潟県が選ばれました。
 そういうことから親鸞聖人は三十五歳から七年間、新潟で暮らしたそうです。新潟県で浄土真宗が盛んなのは流罪の地であったため、本願寺(親鸞の子ども)よりも早くから親鸞聖人のお話を聞いた弟子がいたからだと思われます。
 法要は光源寺で行われました。ここには親鸞聖人が罪を許され京都に帰ってもよいと許された時に描いた姿の絵像が残っていました。
法要には平日にもかかわらず、たくさんの方が参詣されており、本堂の縁側も立ち見の人でいっぱいになっていました。お年寄りが多い中で、お爺さんが二十歳ぐらいの孫を連れた一緒に参拝していたり、仕事着のままで参拝に来ている若い人がいて、その姿に感動しました。
家族の法要だから参拝するのではなく、家族が大切にしていた人の法要だから参拝に来るということが尊いことだと思いました。(釈龍源)

赤倉ホテルのお内仏



鹿児島県の隠れ念仏

 三月一日から一泊二日で九州南部、鹿児島県の「かくれ念仏」の研修会に参加しました。
 「かくれキリシタン」は聞いたことがあっても、「かくれ念仏」は知らないという方は多いと思います。
 九州南部を支配した島津氏は政策として、西暦千六百年頃に浄土真宗を禁止しました。
 その後三百年間続いた禁止政策の中でも、薩摩(鹿児島県とその近辺)の真宗門徒は親鸞聖人の教えを大切にしてきました。
 ですから禁制の中で真宗門徒が、隠れて念仏の教えを大事にしてきた生活を「かくれ念仏」というのです。
 鹿児島空港に着いて始めに向かったのはミュージアム知覧です。ここは知覧特攻平和会館の隣にあり、南薩摩の民俗が展示されている場所で「かくれ念仏」に関する物も少しありました。
 「秘仏の柱」は家の柱の一部を削り、そこをくり抜いて本尊を隠したという物です。そして夜になると見つからないように本尊を取り出して真っ暗な海に船を出します。近辺の人々も船で待ち合わせの場所に集まり、船上で手を合わせ念仏して教えを聞いたそうです。
 知覧の食堂で鹿児島名物のおいしい地鶏や黒豚を昼食としていただきました。
 昼食後は知覧町の「かくれがま(ぬすとあな)」という史跡を見に行きました。洞穴の事を「がま」と呼ぶそうです。
 谷間の河のそばにある岩の間の狭い空間でした。真宗門徒であることが分かってしまえば激しい拷問を受けるので、人々は風雨の闇夜に乗じ、また畑仕事に行くふりをして集まり念仏したそうです。
 なぜ盗人穴と呼ばれていたかというと、嘘をつけない子どもが場所を役人に聞かれたら、教えてしまうのをふせぐために「あの穴は、ぬすっとがいて恐ろしい所だから近づくな」と教えていたからだそうです。
 続いて「立山のかくれがま」に行きました。そこは山の中腹の洞穴で、入口は大人がかがむ程の大きさですが中は四畳半ほどの大きさになっていました。今はすっかり整備されて見学しやすくなっています。
 その後は真宗大谷派の鹿児島別院にお参りをして「かくれ念仏」のお話を拝聴しました。
 別院にも展示コーナーがあり、タンスの上段に金仏壇が隠されているものに感心しました。こういう家具調仏壇があったら欲しいと思いました。現代は部屋に合わないという理由で家具調仏壇が多くなっていますが、弾圧の中の先人達との違いを考えさせられました。
 夜はお土産に焼酎を探したりしながら天文館の辺りを散策しました。
 翌日は観光名所の仙巌園に行きました。仙巌園は島津家の別邸として建てられたものです。建物から外を見ると庭が手前にあり奧には鹿児島湾、さらに桜島が浮かぶという絶景の場所でした。
 続いて願立寺というお寺に参詣しました。ここは念仏禁止令が解禁された後(明治九年)に「かくれ念仏」をしていた人々によって建てられたお寺だそうです。
そこに残された資料をもとに門徒の大工さんに頼んで「かくれ念仏」に関する欄間を作っていただいたそうです。本堂をぐるりと欄間で飾ってありました。
 それから門徒さんの家の裏庭にある念仏洞を見せていただきました。
 そこは本当に整備されていない洞窟でしたが広さもかなり大きく、昔は取り締まりから逃れるための抜け道もあったそうです。全て手で掘られたそうで鍬のあとが残っていました。
 今度は花尾かくれ念仏洞という今度は山を登っていく史跡も見に行きました。まだ三月なのに、汗だくになって登りました。
 天然の岩の割れ目が屋根となり八畳ほどの広さだそうです。洞穴に本尊を隠してお参りをし、法話を聞いたようです。
 その後は昼食を食べて空港に向かって帰路につきました。
 非常に忙しい一泊二日での九州旅行でしたが、とても内容が豊かで充実していました。
 浄土真宗が禁止された背景ははっきりとは分かっていない様ですが、ひとつには、封建時代の身分制度を壊すような教えであったからと言われています。
 世間の身分に関係なく、阿弥陀仏の前ではひとりの苦しみを持った人であるという教えは、生まれによって身分が違うのが当たり前という考え方がおかしいと気づかせてしまうからなのでしょう。人は皆、平等だという教えは支配する側にとっては不都合なのです。「米を作って食べられない人」と「米を作らせて食べる人」という制度に矛盾を感じられると困るわけです。
 念仏が禁止されていたのに何故三百年も教えが伝わったかという事も理由のひとつの様です。薩摩藩の外から僧侶が布教に来て話をし、禁止令の出ていない近隣の藩の門徒によって法座が支えられていた様です。そういうことが、他国と密通しているスパイ容疑ということでも取り締まっていたようです。
 現地に行って、その場所を見て、その子孫の方々のお話を聞けたことは本で読むよりも身近に感じられました。
 拷問・死刑になる念仏の教えを三百年間伝えてきたという歴史をもち、そこまで大切にしてきた浄土真宗とは何だろうか、私も知りたいという思いが強く起きました。

盗人穴

花尾隠れ念仏洞
後日談
 お内仏(お仏壇)の写真がケースのガラスに蛍光灯が反射して、うまく撮れなかったのが残念です。
 現代仏壇の事は書かなければ良かったかもなぁと後悔しています。
 現代仏壇にした人も、よくよく考えて自分がぴったりだと思うものを買っているのですから、単なる嫌な話をしているだけになってしまうなと思いました。



本当に科学?

 インターネットを見ていたら前から疑問に思っていたことについて少し書かれていました。それは擬似科学について書かれているものでした。
 最近はブームも過ぎてきましたが、マイナスイオンが体にいいという事について、本当か?という疑問を持っていました。家でもここ二年ほどで買ったハロゲンヒーターと除湿機にはマイナスイオン発生装置という物が付いているようでした。
そのページにはマイナスイオンは科学的には何の実証もないという事や、根拠とされる『医学領域 空気イオンの理論と実際』という文献が第二次大戦前の本であるということなど、非常に納得できるような内容でした。
 他にもサメ軟骨について、「サメは癌にならない生きものという噂から飲まれる様になりました。今ではサメが癌になることも分かっています」というような事が書かれていました。
 私たちは生活の中だけでなく、学校教育から科学的に正しいことが「本当の事」という風に教えられています。
科学を基準にすることは悪いことではありませんが、信用するあまりに科学っぽいもの(疑似科学)に時代時代で購買意欲を掻き立てられているようです。様々な健康グッズが出ていますが、どれも長続きしません。
この言葉を思い出しました。

  本物を知らないと
  偽者を本物と思ってしまう

 私達が考えている「本当だ」という考えは、時代や社会の状況ですぐに変わってしまうものです。その中でいつでも、だれでも、どこでもが、心を打たれることが真理であると言えるでしょう。
「本物を偽者と思ってしまう」のではなく「偽者を本物と思ってしまう」という事がこの言葉の大切な所だと思います。
私たちがこれこそが本物だと思っていたことが、いざという時には光を失うということがあります。いざという時に輝くような考え方に触れていきたいと思っています。
後日談
実は法語が間違ってますという突込みが入りました。
 本物を知らない人は
 本物を偽者と思っています
だそうです。どなたがいった言葉かはわかりません。
私はこういう風に受け取りましたと開き直っています。



占い


 一夫多妻といわれる占い師が世間を賑わせています。朝にテレビをつければ、どの局でも必ず占いのカウントダウンをしています。星座占い、血液占い、姓名判断など色々なデータを元にして占いをするようです。毎朝占いを見てから出社するという人がいるのではないでしょうか。
 占いは信じないという人は多いようですが、これだけメディアに出てくるということは必要としている人がいるからでしょう。国語辞典には占いとは「人の将来(の運勢)や事の吉凶などを、自然の徴候や物に現れた形象によって予想する」と書かれていました。テレビでも有名な占い師がお墓参りから先祖の供養まで何でも話しています。
 日頃からお寺にご縁のある方でも、テレビで占い師が言ったことを間に受けて、墓石を新しく新調したということも聞きます。意地の悪い番組では占い師に賭け事をさせて、試すような番組もありました。賭け事の占いは得意な方はいないようでした。
 占いで悪い結果が出れば、どうにかして善い結果が欲しいでしょう。そこで占い師さんがこうすれば避けられるといったアドバイスをするようになったのでしょう。
 親鸞聖人は占いについてはこのように言っています。
  かなしきかなや道俗(どうぞく)の
  良(りょう)時(じ)吉日(きちにち)えらばしめ
  天神(てんじん)地祇(じぎ)をあがめつつ
  卜占(ぼくせん)祭祀(さいし)つとめとす
 現代語訳 悲しいことには仏教を大切にしているはずの人々が、日時の善悪や吉凶を選んだり、天地の神々を崇拝して、わざわいを避け福を求めようと、占いや祭り(お払い)をもっぱらしている。
 これを読むと現代は今から八百年前と変わらないことが行われているように思います。科学が発展したから迷信を信じないと思っていますが、意識の本質はまったく変わっていません。
 日や方角の善し悪しを選ぶことが当たり前だと思っている方が多いのですが、親鸞聖人の教えではそういったことに惑わされて自分の生き方を狭めていると考えます。本来、善いも悪いも無いものをそのように決めつけているだけです。
 また占いに頼るような生き方を畜生の生き方ととらえます。畜生とは動物のことではなく、他のものの言いなりになる生き方、主体性の無い生き方を指しています。自分の責任で物事が決められない生き方です。
 ですからラッキーカラーにしたがって自分の好きな服も選べない生き方をして、いいことがあれば占いが当たった。悪いことがあれば当たらない占いといって他の占いを見るという生き方です。
 ラッキーカラーのことで生き方の話は大袈裟だろうと思うかもしれませんが、例えば原因不明の病気である方はAをすれば治ると占い師に言われてAをします。その結果、病気が治った場合は占い師のおかげとなってその人は広告塔になりますし、その後の人生も何かあったら頼るでしょう。病気が治らなかった場合は、病気のことを占い師に相談したことを他人に言う人が少ないので占いが外れたことは知られません。
 お寺へ相談に来る方で「悪いことが続くので占い師に見てもらったら、先祖の供養が足りないから悪いことが起こるといわれた」といって法要を頼みに来る方がいらっしゃいます。そのような時には頭ごなしに否定をしないで、一緒に法要をお勤めさせていただきますが、もし悪いことがなくなった時にも問題があります。希望通りになるように努力した人の過程を無視して、善いことがあったという結果は全て占い師に持っていかれるのです。
  なるようになる。
  なるようにしかならない。
  なるようになったとき自分らしく生き方られる。
 私たちは自分の思い通りになることは人生の一瞬でもあればよいものですが、全てを思い通りにしようとして自分を縛りつけるような生き方をしないで欲しいと仏様に願われております。

後日談
書いた後に何だか自信がなくなりました。占い師ほど当てにされてません。
何をするにも自分が正しいということをいう事は胡散臭いです。




報恩講

 十一月二十八日は親鸞聖人の御命日です。その日は報恩講(ほうおんこう)といって、真宗門徒がもっとも大切にしてきた日です。京都東本願寺では七日間に渡って報恩講をおつとめします。報恩講という言葉には「恩に報いる集まり」という意味があります。
 親鸞聖人は生涯お寺を建てずに、若いころは関東を歩いて教えを広め、晩年には京都の弟の家に間借りをして、『教行信証』という書物を残されました。親鸞聖人が亡くなられてから京都の大谷(又は龍谷)というところにお墓を建てました。そこに念仏の教えにであった方々がお参りにきて集うようになり、お墓と集会所をかねた様なものが本願寺の発祥のようです。ですから東本願寺は通称で、正式名称は真宗本廟といいます。廟というのはお墓の意味です。東本願寺は親鸞聖人にあいに行く場所としても大切にされて来たのです。ですから親鸞聖人の教えに触れたことを喜んだ方々が親鸞、縁のあった先人達のご恩に報いるということが報恩講という法要です。
 報恩講の「報」という意味には他の意味がありまして、天気予報のように「報」には知らせるという意味があります。普段感じていない恩を知らせていただく集まりという意味もあるのです。
 普段「恩」を感じるということがあまりないと思いますし、借りた恩は返せばいい、貸し借りできるものが恩だと思っていないでしょうか。実は私たちが先人から受けた恩というものは返したくても返せないものです。通夜葬儀でよく聞くのが「親孝行、したいときには親はなし」という言葉です。親孝行とはどういうことでしょうか?私自身は胸を張って親孝行をしたと言えることはないのですが、おこづかいをあげるとか、旅行に連れて行くとか、介護するとかそういったでしょうか。ですが私たちが生きるには親だけでなくたくさんの人々や環境によって支えられています。
 例えば言葉にしても、皆さんは日本語で読み書きをしていると思いますが、これは百年でできたものではありませんし、何億人という先人によって洗練されてきたものです。また風邪を引いたら病院に行って薬をもらいますが、それ以前にはたくさんの人々が風邪でいのちを落としてきた歴史があるから、今、風邪薬というものがあるということです。ですが私たちは普段、当たり前だと思って恩恵を受けています。その中でちゃんとした日本語を教えないとか、病院は薬を出す以外何もしないとか言っている私がいる訳です。
 私たちが普段当たり前だと思っていることに目を向け、気づくことで私は思い上がった心をしていたと知らせていただくことが報恩講をお勤めするの一つの意味ではないでしょうか。



秋のお彼岸

 夜と明け方になると肌寒い季節になって来ました。秋にはお彼岸があります。お彼岸は九月の立秋の日と前後三日の七日間をお彼岸の時期としています。
 これは日本で始まった行事だそうです。立春、立秋の日はちょうど昼と夜の長さが同じになります。なぜかというと、ちょうど垂直に太陽が昇り、沈んでゆく日だからです。その日がなぜ彼岸となったのか、正確な理由は分かりませんが、太陽が真上にあがり、真っ直ぐに西に沈んでゆく姿を特別な日であると捉えたのでしょうか。西という字は、鳥が帰る方向という形が西に当たると漢字だそうです。西方浄土という言葉があるように経典では、浄土は西にあると説かれています。これは帰ってゆく場所を大切にしたいという思いから説かれたのではないでしょうか。
 私たちが帰ってゆく場所とはいったいどこでしょう。家庭でしょうか、故郷でしょうか。帰れる場所というのは私を受け入れてくれる場所でしょう。故郷でも親族がいなくなれば帰りづらくなるものです。浄土は誰でもが帰ることのできるところ、故郷に帰るような気持ちが心に届くということでしょう。
 「お彼岸」という言葉は、彼の岸、あっちの岸という意味です。そしてあまり知られていませんが、此岸(しがん)という言葉もあります。こっちの岸という意味です。
 仏教は覚る(さとる)ことを目的とした宗教です。その覚りにいたることを、川のこっちの岸とあっちの岸という言い方をしている訳です。 覚りの世界を彼岸、迷いの世界を此岸というのです。
 この言葉のイメージから亡くなった方がいるところが彼岸で、生きているものがいるのが此岸という意味にとられたことで、今の「彼岸はお墓参り」というイメージになったようです。
 忙しい毎日の中で、何時間もかけてお墓参りすることは、日々の生活で失われたほっとする気持ち、落ち着ける場所を取り戻すためではないでしょうか。お墓にお参りすることも大切ですが、お彼岸を縁としてお墓参りの背景にも触れていただきたいと思います。



寺地移転
 お寺が引っ越しました!
 前号でお知らせしましたように、7月末に無事に引越しを終えました。不動産屋さんを回って二年目にしてようやく購入した土地です。不動産関係の方なら知っていると思いますが法律ではお寺はどこにでもたてられます。ですが経済的な条件と土地の広さの問題から、交通に便利な駅周辺はなかなか手が出ません。それなら郊外で大きな土地で車がたくさん停められる方が良いのではないか、ということから茅ヶ崎の山側の土地を探していました。
 今の場所はそれなりに大きい通りに面した角地なので、希望どおりのよい所にお寺を構えることができました。また、市街化調整区域では新しい建物が建てられないという条件があるのですが、それも中古住宅が建っていたことで、それをリフォームすれば使えるということからも良い条件でした。
 お寺らしい本堂も京都の仏具屋さんの手で仕上げてもらい完成しました。まだまだ手を加えたいところはありますが、まずは本堂を第一と考えてリフォームしました。
 これからが本格的な宗泉寺の活動となります。伽藍ができても、中はがらんどうでは仕方がありません。皆様が足を運び易いお寺にするために、皆様と一緒にお寺を盛り上げてゆきたいと願っております。また、この場所で百年、二百年と仏法が相続されることを念じております。皆様の今までと変わらぬご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。



寺地決定
 茅ヶ崎開教所での活動も一年がたとうとしています。この一年で様々な方にご縁をいただきまして、これからも続けて行ける希望が見えてまいりました。
 さて、この度茅ヶ崎市内に念願でありました土地と建物を購入しましたことを皆様に御報告いたします。お越しになった方は御存知でしょうが、今の開教所は、普通の建売住宅でお寺の看板を出して、本尊を安置している状況です。本堂として使用している部屋は六畳の和室を使っておりますので、一般的に考えられているお寺のイメージとはかけ離れた質素なものです。
 また借家ということもあり、後に家主様が戻って来るために永続的にそこで活動をすることもできません。
 そういった理由から、活動の拠点としてお寺の土地と建物を開教所を開く前から探していました。条件にあうところが見つかるまでに数年はかかるだろうと考えておりましたが、良い話がありましてこの度決定いたしました。
 資金は宗泉寺本院(東京都北区)のお金と、私たち夫婦が貯めたお金と宗泉寺本院住職名義の借金によって集めることができました。これもひとえに皆様からの真宗興隆の願いによるものであり、またその思いによって、長い時間をかけて蓄えられた資金です。なお、このことによる門徒・信徒の方への強制的な寄付の願いは一切致しません。
 新しい場所は茅ヶ崎駅からはかなりの距離がありますので、車での移動になると考えて駐車スペースが四台分程度ある土地にいたしました。雨漏りがある建物だったので、梅雨入り前に防水の工事をしてもらい、現在はリフォームの業者の方に外装と内装にとりかかっていただいています。本堂内陣の工事等も含めて完成は七月中旬というお話で、お寺の引越しは七月の下旬にする予定となっております。
 何かと皆様にご迷惑をおかけするとは存じますが、これからが茅ヶ崎での本格的な活動になると考えております。今後ともよろしくお願いいたします。

新住所(八月より)神奈川県茅ヶ崎市下寺尾二〇八五
浄見寺様(大岡越前墓所)より二百メートル・大岡越前通り沿い
バス停堤坂下より西に徒歩十五分
JR香川駅より徒歩二十五分
茅ヶ崎駅より車で二十分



新潟で雪かき
 四月四日から一泊で新潟県小千谷市に雪堀りのボランティアに行って来ました。小千谷(おぢや)は新潟県中越地震の際、多くの被害を受けた地域です。地震があった上に今年は記録的な豪雪ということで、お寺の雪下ろしで大変困っているという話を聞いた坊さん数名が立ち上がって行われたものです。
 雪下ろしといえば屋根から雪を落とすものだと思っていましたが、実際言ってみるとお寺の屋根からは雪が下りていました。ですが、降りた後の雪がなかなか溶けずに残って三メートル!以上になっており、地震被害の修復に邪魔になるという訳です。そこで、積みあがった雪をなるべく平らにして、早く溶けるようにするというのが今回の目的でした。ですから雪下ろしではなく雪掘りなのです。
 小千谷に昼に到着したら、まずは名物「へぎそば」を食べに行きました。「へぎそば」はそばの中に海藻が入っているそうで、とても喉ごしもよく美味しかったです。
 ボランティアなんだから一日中働けと思うかも知れませんが、地元の経済に貢献することも大切でしょう?と言い訳しつつ楽しんだのです。
 昼食後、お手伝いするお寺に到着すると、本堂を隠すような雪の壁が見えます。作業の目的として本堂の正面の雪をどけましょうということになり、新潟の真宗のお寺さん軍団と合流して早速作業開始。地元のお坊さんに教えていただきながら、積みあがった雪をどんどん運んで平らにしてゆきます。その時使われたのがスノーダンプという雪を運ぶ道具。工事現場にある一輪車から車輪を取ったような形をしており、なれるととても便利なものでした。三時間程でだいたい片付いたので作業も終わりで記念写真です。雪堀りの後に本堂に上がらせていただきましたが、床板は修復のためか全て剥がされ、土壁はところどころ剥がれ落ち、本尊や仏具はお堂から避難しているそうで、地震の激しさが伝わってくるものでした。
 次の日のお寺でも雪堀りをして工事資材を運べるように道を作りました。普段体を使わないために今は筋肉痛に襲われています。新潟中越地震も時がたって話題にのぼらなくなって来ましたが、まだまだ私たちの手伝えることはあるかもしれません。機会があったらまた行きたいと思います。

後日談
その後、筋肉痛が悪化してどんどん背中の筋肉が張ってゆきました。
次の日、あまりに痛いので両手を伸ばして伸びをしたら、腕が下がらなくなり、10分ほどかけてやっと両腕を下げるほどになりました。
心配だったので病院でレントゲンを取ました。その結果、骨には異常がないということで、シップだけ渡されました。シップ十枚4000円でした。



禁煙
 妻が里帰り出産から帰る前に、子どもに悪いから煙草をどうしても止めてほしいと言われたのでキッパリ禁煙しました。もともと禁煙はいつでもできると思っている程度しか煙草を吸っていないつもりでした。ですが煙草を止めてみると、思いがけず煙草を吸いたい気持ちは起こってくるもので、普段は気にしていなくても、近くで煙草の匂いがしてくると吸いたいという気持ちがふっと湧いてきます。煙草を吸いたい気持ちを我慢してストレスがたまるぐらいなら、いっそ煙草を吸ってしまおうかと何度か思いました。ですが、ガムをかんで気を紛らわせたりして、どうにか今のところ四ヶ月禁煙が続いています。三ヶ月の頃、このことを先輩に話したら「三日坊主っていう様に三のつく頃が危ない。三ヶ月と三年目は気が抜ける頃だよ」と言っていました。私はそんな気もすると妙に納得しました。たしかに三ヶ月目になると、またいつでも止められると思って、少し吸ってみようかなという気持ちもありました。
 煙草の話でもう少し。どなたかに聞いた話で、ある外国の仏教寺院でお坊さんが皆そろって煙草を吸っていたそうです。それを見た方が、どうしてお坊さんなのに煙草を吸っているんですかと聞いたところ、そのお坊さんはお釈迦様の経典には煙草は駄目だと書いていないと言ったそうです。たしかに煙草は南米の方から世界に広まったものですから、お釈迦様の時代に煙草はインドに無かったのでしょう。ですが、経典に無いからといってそれをすすめて良いわけではないと思います。
 経典に書かれていることを自分の都合の良いように解釈することが、様々な宗教で起こってきた歴史があります。宗教戦争と言われていることは、宗教を説いた方が生きている間は起こらないものです。後に残されたものが、自分の都合に合わせて教えを利用することから起こります。自分を正当化するために宗教を利用する方法は古くからとられていました。今、日本では憲法改正の草案の中に政教分離の緩和という項目があるようです。私たちの子どもが生きやすい国になるのでしょうか。
後日談
つれあいは私が煙草を吸っている写真を発見!
私はそれはずいぶん前の写真だと言い訳しましたが、
すぐに今年の新年会の写真であることが発覚!
偉そうなことを言っていましたが実は煙草を吸っていました。
他からは見えるのに自分からは見えないものがあります。


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