2010年

報恩講が勤修されました。

脇山 展彦師

 昨年の十二月六日に宗泉寺におきまして親鸞聖人のご命日の法要、報恩講が勤まりました。報恩講は浄土真宗で最も大切な法要です。京都の本山では一週間の法要が勤まります。
 今回の講師は東京教区教導の脇山展彦先生でした。お話を抜粋して掲載します。
 九州の小倉で生まれ育ちました。両親は電電公社に勤めていました。両親は若い頃炭坑に勤めていましたが閉山などの影響で労働運動に熱を上げていました。うちの本棚はマルクス、レーニン、毛沢東、テレビはNHKのみでした。家庭内の話題も反戦や公害の話でした。ある日父が『阿弥陀経』を勤めるようになり、仕事に行く前にお寺二軒に行ってお参りするようになりました。父は「これからうちはマルクス、レーニンは棄てる。これからは親鸞にする」と言い始めました。
 父が言うには「イデオロギー(考え方)で人は幸せにならない。傷つけあってしまう。本当の人の救いにはならない。それに自分も荷担してきた。労働組合の中ではオルグといって職場の人を点数化し、勧誘して仲間を増やしていた。いつの間にか組合の中で自分が人を裁く立場になっている。また逮捕されることもあったが、それ以降仲間だと思っていた人に裏切られることもあった。そんなことがある中で親鸞に学びたい」と思ったというのです。そういうこともあって私の両親はサラリーマンでしたが私は大谷大学に行って得度をしました。
 最近、母に「あなたの言動雰囲気を見ると非常に傲慢なものを感じる。ひたむきさが消えている。知識を得た話は聞きたくない。親鸞の教えは本当にそんな教えなのか」と言われました。
 教えに会わせて生活するのではなく。生活ありきで教えがある。生活の中にあるものを言葉にしたのが教えです。曽我量深は母の食事の支度をする背中に菩薩の修行を感じたといわれます。限られた人の修行の姿ではない。教えが生活からかけ離れて来ているという責任が僧侶にはあります。
 聞法、法を聞くという事で避けられないことを受け止めるのです。生活の中の苦しみ、悲しみがあるから教えが求められるのです。その中で誰でも、いつでも、どこでも出来るのは念仏です。
 比叡山からおりて、一切のものが救われる念仏の道を説いた親鸞の生き方を聞いて、聖人と呼んできた伝統が浄土真宗なのです。


仏具の「おみがき」
 報恩講の一週間前の日曜日、十一月二十八日に、おみがきをしました。
 少人数ながら、手慣れた参加者に助けられ、なんとか4時過ぎには作業を終えることができました。
 どうもありがとうございました。
 お陰様で、ぴかぴかの仏具で、報恩講を迎えることができました。
 永代経と報恩講のまえには、いつもおみがきをしています。
 予定は、寺報でお知らせいたしますので、参加してくだされば助かります。
 日頃、さわることの少ないお寺の仏具に親しんでいただくよい機会ですし、磨くうちにぴかぴか光ってくるのは、意外と楽しいものです。
吉田ヨシ子様 
内川キミヨ様
須藤万紀子様
お仏壇のはせがわ様


草むしり
四月二十日
十月十九日
駒形 信行様   佐藤 久司様
須藤 万紀子様  藤尾 信治様
お仏壇のはせがわ様

十一月十六日
須藤様ご家族
佐藤 久司様
藤尾 信治様
駒形 信行様
お仏壇のはせがわ本田様
今年もありがとうございました。



お盆合同法要
 八月八日の日曜日にお盆合同法要がつとまりました。
 当日は、六十名以上のかたにお参りに来ていただきました。皆さんのお盆への関心の高さを感じた一日でした。
 『阿弥陀経』と『正信偈』を皆様でお勤めしたあと、住職がお盆のお話しをしました。
 こんなにおおぜいの方をお寺にお迎えしたのは初めてでした。
役員の方々や、駐車場の整理をしていただいた方のおかげで、無事終わることができました。本堂を広くリフォームしたかいもあります。
今回のもっとこうしたらよかったと思うことなど、生かして、来年も開催したいと思います。
  


草むしり
七月六日
駒形 信行様
佐藤 久司様
藤尾 信治様
吉田 ヨシ子様



八月三日
駒形 信行様
佐藤 久司様
お仏壇のはせがわ様



九月十四日
駒形 信行様
佐藤 久司様
須藤様ご夫妻
藤尾 信治様
吉田ヨシ子様
お仏壇のはせがわ様



・草むしりに寄進をいただきました。
内川キミヨ様

 暑いなかを作業していただきました。
お陰様で、お盆もお彼岸もスッキリした状態でお参りしていただけました。ありがとうございました。
作業日以外にも、来て草を刈ってくださる方もおられます。
 草むしりは住職と坊守も毎回参加しています。宗泉寺は年会費をいただいておりません。皆さんの奉仕でお寺は支えられています。ご協力をよろしくお願いいたします。


永代経法要

中津 功 師

 今年も永代経法要が勤修されました。法話の中津功先生のお話を抜粋にて掲載します。
 お寺はあってもなくても良いものではない。お寺とは聞法の道場です。聞法の法とは真実の教え、仏法を聞くということです。
 いらないことが良く聞こえ、聞かなければいかんことは聞けない根性をもっています。「聞く」ことによって人間の生活が成り立つのです。
 真実の法が伝統されてきて、今日の永代経で教えに出会えること。お寺だけでなく家庭や生活の場が道場です。家庭の中心はお内仏です。そこで念仏しお勤めをします。真っ暗な中では人も自分もわからない、そこに光があれば暗いことに気づきます。仏とは目覚めたものという意味です。
 人が死ねば仏になるという事は違います。先だって亡くなった方を本当にうやまえるか。永代経は先だって亡くなった人の恩徳をいただく事です。功徳はもう働いているのに自覚も無く、気づかない私達です。
 先立っていった方々は何を私たちに残してくださったのか。それは仏法です。まことの仏法。それが真宗です。真実の宗。宗(むね)はよりどころです。依り処がなければ生きることに迷います。
 先日新聞に載っていた松永伍一さんのお話を紹介します。伍一さんの母の葬儀に際して「母上様、私を生んで下さって有り難うございました」と挨拶した。母を送るときの言葉です。短いけれど深い感動がこもっています。私たちは先だった親たちにどんな言葉を捧げられるでしょうか。
 伍一さんは母が年を取って身ごもった子で、姑さんからいい歳をして恥ずかしいと言われたそうです。母は流産をしようとこころみたけれども、伍一さんは生まれてきたという話をお姉さんから聞いたそうです。両親がいなければ私はここにいません。生まれがたい人生を生まれたのです。
 ありがとうは、有ることが難しいという仏教用語です。当然と思っていることも本当は有ること難しです。謝念が無ければ言えないことです。
 私は若い頃は生まれてこなければ良かったと思っていた時期がありました。兄弟が亡くなり、母も亡くなり、世の中の不平等を感じるなかで死んでもいいと思うようになりました。その中で高校生の時に親鸞聖人の教えに出会いました。
 親鸞聖人の口伝鈔の中に「人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり」という言葉があります。
 四苦八苦という苦しみの中で愛するものと分かれる苦しみはもっともせつないと言われます。親鸞聖人の生きた七五〇年前の問題が今の私自身の問題と重なりました。
 永尾雄二郎さんという掛川の精神科医の方は、若い頃行き詰まって金子大栄さんに出会いました。その方がお年寄りの家に往診に行ったときの事です。床の間に掛け軸が掛けてあり
 「いらいらや くよくよも せず おおらかに ゆうゆうじてき 老いの坂路を」
と書かれていました。お年寄りは掛け軸の言葉を目標にがんばっていました。
 そんな中お年寄りが寝たきりになってしまい、掛け軸通りの生き方が出来ずに辛いという気持を聞きました。そして永尾医師は私ならばこんな言葉を大切にすると言いました。
 「いらいらや くよくよ のみの 人の世も なごりなつかし 今日の一日」
 なごりなつかしとは死ぬ身であるという事です。自分だけが何故こんなに孤独なのかと悩みますが、誰もが孤独なのです。その中で出会うということは大変な事です。
 その後、永尾医師がお年寄りに会うと悩みが軽くなって元気になったと言うことです。
 「人間の事実をごまかさない。願望の中にのみこまれないで生きていく」。真実の教えは生きている現実。伝えてくれる人を通して知るのです。
 くよくよは無くなりません。格好いい言葉は効果的だけどきれいごとです。真実ではない。事実を忘れると願望ばかりになってゆきます。
 清沢満之さんは大谷派の僧侶の方で三九歳で亡くなりました。
 「生のみが我らにあらず 死もまた我らなり」という言葉を残しています。私たちは死ぬべき身を生きているのに忘れてしまいます。
 私も貴方も死ぬ身であるという事から、生が浮かび上がります。今日のいのちをうけとっている私。先人との出会いは今の生かされている私に出会うことです。

永代経の感想    釋尼光智

 今年も恒例の永代経が無事に勤まりました。お話は中津功先生でした。先生は他宗の一般の家に生まれたそうですが、親鸞聖人の教えに感動して真宗一直線で生きてきた情熱的な人だそうです。
 死ぬ身であるという事実は、日頃なかったことにしていることです。死にたくない健康でいたいと思うあまり、無いことにしてしまっては無理が出てくるのでしょう。
 先生は、人生の事実をごまかさないで、願望に飲み込まれずに生きていくということではないかとおっしゃっていました。
 確かにいらいらくよくよは無くならないし、死ぬ身であるということは事実です。
 だからこそ、いまここにいる自分の有り難さという部分が、浮かび上がってくるのかなあと思いました。
 その他にも、色々な言葉やご自分の体験をひいて、真宗への想いをたくさん語っていただきました。
 そのあとの座談では、参加者の方々が、それぞれに悩みなどを話されて、先生がまた力一杯にお答えになっていました。
 茶話会はお話についての感想が多かったのですが、温かく一生懸命な先生の雰囲気が、悩みを話させたのかなと思ったことでした。
 毎回、違う先生をお呼びしていますので、どの先生も真宗についてお話しされているにもかかわらず、それぞれにカラーがちがっていて面白いものだなあとこのごろになって思います。
 本を読むのも良いのですが、是非実際にお話しされている現場に、足を運んで見てほしいと思いました。

仏具の「おみがき」
五月三十日
町田市 西村様
吉田ヨシ子様
 綺麗な仏具で永代経があがりました。


草むしり
四月二十日
佐藤 久司様  藤尾 信治様

五月十八日
須藤 万起子様
藤尾 信治様
お仏壇のはせがわ様


六月十五日
佐藤 久司様
須藤 万起子様
藤尾 信治様
お仏壇のはせがわ様
皆様が清々しくお参りが出来るように手入れがされました。ありがとうございました。


草むしり
三月六日
佐藤 久司様  須藤 万起子様
藤尾 信治様
お仏壇のはせがわ 石川様
 暖かくなるにつれて、草が元気になってきました。ですが、まだ小さいのでぬきやすく、作業が進みました。
お陰様で、庭がさっぱりしました。ありがとうございました。


修正会
 今年も、一月一日の朝六時から、無事に修正会が勤まりました。
 年々、早起きがつらくなって、もうやめてしまおうかと思いながら何とか続いているのは、お参りして下さる方がいるおかげだと思います。
 朝早い時間にもかかわらず、たくさんの方にお参り頂き、今年の始まりをしみじみと感じたことでした。
 お参りのあとには、皆さんでおせちをいただきながら歓談の時間となりました。


Home
253−0081 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085 浄土真宗大谷派 宗泉寺