坊守空間
釋尼光智
住職の原稿より好評なのでHPにも掲載することにしました。
歎異抄の学習を通して   
大谷派の湘南地区の坊守の会で、『歎異抄』の勉強会があり、講師の先生のお話を聞きました。
 歎異抄は、一人で読んでいくのはちょっと難しいので良い機会をいただいたなあと思っています。宗泉寺の聞法会でも、今は歎異抄についてのテキストを読んでいるということもあって、興味深くお話を聞くことができました。
歎異抄の序文は、歎異抄を書く動機について書かれています。著者が親鸞聖人の亡くなった後に教えが変質してしまいつつあることを悲しんで、自分勝手な考えで他力の教えを乱すことがないように、同じ志を持つ同朋のために著者が聖人から直接聞いたお話で心に残っているものを書き記すという内容になっています。
 その序文の原文の中に『自見の覚悟』という言葉がでてきます。その部分について、先生が丁寧に解説して下さった事がとても印象に残っています。現代語に訳せば、自分勝手な解釈という部分になりますが、その言葉に込められた意味を教えていただきました。人間は自分の体験や感覚でしかものを見ることができないし、自分の考えこそが正しいと思い込んでいることに気づかないというお話を聞いてから読む『自見の覚悟』という言葉は、さらっと訳を読んだときとは、重みが全然違うなあと感じました。
 後日、NHKで『一〇〇分でメディア論』という番組を見ました。私たちは、新聞やテレビ、この頃ではインターネットなどのメディアの発信する情報をどう受け止めていったらいいのか、どういう課題があるのかという内容でした。その中で、第一次世界大戦中にアメリカの情報を司る機関で働いたウィリアム・リップマンという人の書いた『世論』という本が取り上げられていました。その中で、人は自分が知っている経験や知識を元にして情報を感じ、それが世界に影響を及ぼしてしまうという説明がありました。
 私は番組を見ながら、“自見の覚悟”という言葉を思い出していました。どんな場所で、どんな時代でも、自分というフィルターを通してしか物事を見られないことは変わらない。先人はそのことに気づいていて、言葉を残しているのに、やっぱり自分のフィルターにはなかなか気づけないことの難しさを感じました。
 


    グリーフケアについての研修会に参加してB     
    前回までで、グリーフ(大切なものや人を喪ったことによる悲嘆)の現れ方は人それぞれで比べられないものだということをお伝えしてきました。
 グリーフの状態の変化もまた、人それぞれなのだそうです。すうっと右肩上がりに調子が上がる人もいても、辛い時とそうでない時の波が上がったり下がったりという場合もあるというのは把握しておいた方がいい情報だなと思いました。
自分がサポートする側、される側のどっちになっても、もう大丈夫なはずだという思いで自分を責めたりしないこと、思い込みを持たずに相手の話を聞くよう心がけることにつながるのではと思います。
 具体的には、記念日反応といって、命日だったり、思い出の季節や行事が近づくと体調を崩したり、気持ちが辛くなる場合もあるそう。そういうことが起こりうると学ぶことで、不調の理由を把握しやすくなり、ケアにつなげることができるというお話でした。
必要なケアも、またそれぞれです。大切な人を亡くしたことの気持ちの上でのグリーフだけでなく、経済的な困難や家事育児が困難な状況にある人もあるでしょうし、役所での手続きや葬儀に関することなどもあります。そういう悩みに対応していくのもグリーフケアの一環なのだそうです。
私は、家族を亡くした人が話す聞く会という一面しか知らなかったので、本当に幅広いものなのだなあと驚きました。
講師の水口先生が理事を務められている、リヴオンはいつ、どこで、どんな形で大切な人をなくしても必要なサポートにつながる社会を実現することをめざして活動されている団体だそうです。様々な講習会や、グリーフを抱えやすくするためのグリーフワークなども実践されているとのことでした。
グリーフワークというのは、体操、遊び、手芸、亡くなった人に手紙をかく、絵など表現することや、話す聞くこと、グリーフケアの学習などもあるそうです。以前にお寺で開いていたような、お話をしてもらう会はケアの中でも、グリーフワークのなかのひとつにあたるということがわかりました。
今回の講習会で印象に残ったことの一つに、同じ人を亡くしてグリーフを抱えても、立場によって受け止めが違うというお話がありました。家族を亡くしたグリーフと言っても、その家族との関係や、無くなった状況も様々だと思います。
自死遺族の会、交通事故遺族の会など、インターネットで少し見るだけでも、色々な会があるのがわかります。そのことだけでも、ほんとうにそれぞれだと感じます。また、必要としている機関につながれるかどうかは、周囲の環境によって違う感じもしました。
お寺でできることとしては、会を開くほかにも、通常行っている葬儀や法事についての相談や、葬儀や法事を勤めること自体がグリーフワークになる方もいるそうです。予定して、出欠の調整などの準備をして、実行してと大変なことなので、終わったこと自体への安心も大きいと思いますが、ご法事ができてよかった、ほっとしましたという言葉を聞いたことがあります。
私は親戚や祖父母の葬儀を通じて、亡くなった人に何かしたいという気持ちをあらわすこと(お花を出す、法要に出席するなど)や、集まった人たちで故人のことを話すということがグリーフワークになっている部分があると思いました。
知ったことを伝えるだけで、グリーフを抱えやすくなる人もいるという水口先生の言葉を聞いて、つたないながらも聞いたお話を、思ったことなど交えて書かせていただきました。興味を持たれた方は、リヴオンのHP、書籍などもあります。

一般社団法人 リヴオン
http://www.live-on.me/
書籍『一〇二年目の母の日―亡き母へのメッセージ』 リヴオン
『なくしたものとつながる生き方』 尾角光美著 サンマーク出版
   
         
     

   
     グリーフケアについての研修会に参加してA    
     グリーフは人それぞれ
 今回はグリーフケアの研修会で聞いたことのうち、グリーフは人それぞれということを書いていきたいと思います。
 講師の水口先生自身がおつれあいを亡くされた時に、同じ人を亡くしても親なのか子なのかなど、立場でも感じ方が違うことを知ったこと、比べられることによって大変傷ついたことをお話しされていました。これは、私がグリーフケアに関わってもいいのかという迷いとも関係していると思います。
 水口先生が学び、現在理事を務められているのは『一般社団法人 リヴオン』といい、グリーフケアに関する活動をされています。その団体では、一般的に死別による悲嘆とされているグリーフをさらに広い意味でとらえているそうです。
 それは、『大切な人、ものなどを失うことによって生じる、その人なりの自然な反応、感情、プロセス』というもので、死別以外にも病気によって健康を失ったり、絶交や引っ越し、結婚や卒業入学などでこれまでの環境からの変化でも起こる場合があるということでした。
 そして、グリーフの現れ方も、わかりやすい悲しみだけではないということでした。内容はまさに人それぞれで、お話を聞くといくつか思い当たることもありました。
 例えば、後悔です。人が亡くなった時に、もっとこうしてあげたらよかったと思うことがあります。私も祖父や祖母が亡くなった時、もうちょっとまめに会いに行ったらよかったなという気持ちがありました。
 例えば無感動。これも自然な反応のひとつだそうで、泣いていないから大丈夫なのではなく、ショックのあまり、自分自身を守るための反応なのだそうです。
 また、安心というものもありました。そう感じた自分を責めてしまう人も多いそうですが、これもまた自然な反応だということ。そう伝えることだけでも、辛さが軽減した人もいるそうです。例えば、看病や介護をしていて、その対象を亡くしたという時、対象はもう苦しまないで済むと思えばホッとする場合があるそう。いつ何があるだろうかという心配がなくなって、やっと眠れるということだってあるだろうと思います。
 例えば、怒りです。これは、見ている周囲もとても辛いので止めたくなるのだそうですが、無理に止めずに怒りの根っこにある部分を見ていくことが大切なのだそうです。例えば、災害などで家族を亡くされて、自分のせいだ!自分がいれば助けられたのにと自分自身に怒りを向ける方がいるそうですが、根っこには生きていてほしかったという思いがあったそうです。
 そして、怒りに限らず、これらのグリーフは無理に止めてしまうと、感情がさらに暴れてしまい辛くなるのだそうです。グリーフは自分を支配するものではなく、自分から生まれてきた自然な反応と知っているだけでも、少しは過ごしやすくなることがあるということでした。
 こうした様々なグリーフも、悲しみや不安など、気持ちの中にでてくるだけではなく、様々な影響が出てきます。
 例えば、体への影響です。不眠や過眠。うまく食事がとれない。体の痛みなど。体調に関しては、病院に行き、不調を治療で楽にしてもらうことをおすすめされていました。
また、社会的な影響もあります。会社や学校に行けなくなったり、人と会うのが嫌になったりという場合もあります。一見元気に見える状態として、過活動ということがあるそうで、失ったことに向き合いたくないという気持ちの表れという場合もあるのだそうです。向き合いたくないときは、無理に向き合わないことも大切なことだそうですが。過活動が続くと、体に無理がきてしまいます。周囲の人が、お茶を飲みながら体調のことを聞いてみると、本人が気づくこともあるそうです。
 また、スピリチュアルな影響というのもあるそうで。神も仏もないという不信感、なぜ生きているんだろうという気持ちが出てくることもあるそうです。
ここまでの気持ちの表れや、感情からどういった変化が心身に現れるかということだけでも、人によっていろいろということがわかります。苦しんでいる人が自分を責めてしまっては、苦しみがより強まってしまうことでしょう。周囲も当人も様々なグリーフを自然なものなのだと知っていて受け入れることが、まず第一段階なのだなということが少しずつわかってきた気がしました。私にはわからないと決めつけずに、知ること、わかろうと想像することはできるというお話に、改めて人と比べている自分に気づくことができました。それに、共感しすぎると一緒にダウンしてしまうということにもなりかねないそうで、知識や学習で知っておくことが助けになることも多いのだろうということも感じました。
次回は、グリーフからでてくる課題やプロセスもまた様々であるというお話を感想を交えながら書いていきたいと思います。

   
     

   
     グリーフケアについての研修会に参加して@     
     練馬の真宗会館で開かれたグリーフケアの研修会に参加しました。
 以前に宗泉寺でもグリーフケアの集いをひらいたことがありました。
 きっかけは住職が若手僧侶の研修会で、グリーフケアを学習してきたことだったと記憶しています。住職はお葬儀にうかがうので、様々なご遺族の様子を見て、必要だと考えていたようです。私は、だいたいどういうことをするのかを住職から聞いただけで会に参加しましたので、何がなにやらわからないまま同席していました。
 グリーフケアの知識があるわけでもなく、身近な家族や友人を亡くしたばかりというわけでもない私がここにいてもいいのかと思いながら、その場に居続けていました。結局、最後まで宙ぶらりんの気持ちのままで終わってしまったという気持ちがありました。
 会自体は、いつも参加されていた方が亡くなってしまったり、何となく参加人数が減ってしまったりして辞めてしまいましたが、宙ぶらりんな感じは胸に残っていました。
 この度の研修は、自身が事故でお連れ合いを亡くされ、その後グリーフケア活動をしている団体の理事を務められている方が講師ということで、もう一度宙ぶらりんになっていることを学びたいという気持ちで参加しました。
 私はグリーフケアというのは家族を亡くした人の話を聞くという認識しかありませんでした。
 ですが、先生が話してくださったグリーフは、直訳すれば死別による悲嘆だけれど、大切な人やものをうしなうという経験から出てくる感情と共通するということでした。死別以外にも、失恋や絶交、引っ越し、おめでたいはずの進学や結婚、出産などもグリーフを生むことがあるというのは、少し驚くと同時にとても納得できました。
 友人と仲違いしたり、引っ越すことで馴染みのある場所から離れてしまったり、結婚や出産で立場が変わってしまえばそれまでの自分からは変わらざるを得ないという体験ならば、私にもあったからです。そして、狭量なものさしでグリーフを計っていたから、グリーフケアの会に参加して良いのか迷っていたと思い当たりました。
 先生の話を聞くことで、グリーフは人によって様々で比べられないということを今まで聞いていただけで、理解できていなかったのだと気がつくことができました。
 それに知識が無いままでは、ただでさえ掛ける言葉もない状況の人の話をどうきいていいのかもわからなくて腰が引けていた部分もありました。
 見切り発車でもいいから、グリーフケアの情報が伝わるだけでも、気持ちが楽になる人もいるという先生の言葉を聞いて、研修で聞いてきたことを少しでも伝えていけたらと思います。
 次回から、聞いてきたお話を少しずつ、私の感想も交えながら数回に分けて書いていきたいと思います。

   
     

   
       伯父の葬儀に参列して    
     四月の五日六日で伯父の葬儀のために、子供たちをつれて一泊二日で高知に帰省しました。ちょうど新学期初日だったので、子供たちに一緒に行くかきいたら、夏休み行ったときお世話になったから行きたいというので一緒につれて行きました。
 小さい頃からお世話になっていた母方の伯父が亡くなったという知らせを母からもらったときに思ったのは、そんなに具合が悪かったのかということでした。母の実家は祖父の代からパンとお菓子の店をやっていて、訪ねていくと伯父はいつも店のすぐうしろの工場で仕事をしながら迎えてくれていました。
 最後にあったのは3年ほど前の春でしたが、久しぶりに会う伯父は背中こそ曲がってきていたけれど元気に仕事をしていたからです。いつもは主にパンをつくっていますが、春になると桜もちをつくるので、とても忙しくしています。ちょうどその時期に入院して亡くなったので、かなり大変だったようでした。
 甘い物が好きで、いつもニコニコして、いつ行っても工場で仕事をしているのが私の知っている姿です。ですから、八十四歳という年齢にも驚きました。
 亡くなった伯父の顔を見ると、十年ほど前に亡くなった祖父にそっくりでした。お通夜の日に、母やいとこから病院でのことや亡くなったときのことを聞いたり、昔のアルバムを見たりしました。伯母からは伯父が帽子も好きだったと聞きました。
 お通夜は故人の希望もあったようで、自宅でお勤めされました。家族や親類一同がお通夜に参列したのですが、お通夜の儀式が終わった後もパン工場の元従業員さんや近所の人も来ていました。自宅はお店と同じ場所ということもあって、商店街の中にあるので近所のお店の人たちも来ていて、伯父の思い出話などしていたようでした。
 次の日の昼頃に伯父を葬儀屋さんのホールに移して葬儀になりました。葬儀にも、たくさんの人が来ていました。急いで飛行機で帰省したり、久しぶりに親戚に会ったり、伯父の死に驚いたりしているうちに、どんどん時間が経ってしまって、あっという間の二日間でした。
 お経やお焼香が終わって、伯父のお棺に花を入れているときになってようやく、もう会うこともないのだなというさみしさとありがとうという気持ちがわき上がってきました。
 火葬場にお棺が出発する前に、喪主である伯母のかわりに故人の弟にあたる伯父が挨拶をしたのですが、ギターや車、カメラが好きだったことや伯母とのなれそめなど知らないことがあって、また驚いたのでした。そうして、うんと小さかった頃、私も写真をとってもらったようなことを思い出したりもしました。
 飛行機の時間の都合で、火葬場へ行く車を見送ってすぐに空港へ向かいました。
 小さい頃から何度も通った道はあまり変わっていなくて、終わりかけの桜があちこちに咲いていてとてもきれいでした。お互いの近況や世間話、伯父のこと、葬儀についてなど、集まった人でいろいろ話したり聞いたりしながら、伯父の顔も見ることができて、葬儀に出られて良かったなと思います。
 時間が長い方がいいというわけではないけれど、お通夜から来られたから、その間に色々思い出したり知ることが出来たのかなと実感として思いました。人一人の記憶というのは、そのままだととても少ないけれど、他の人から話を聞くことで補われたり、記憶の意味を理解できたりすると感じました。
 お寺という仕事上、葬儀や法事の連絡を受けることが日常になっていますが、自分が葬儀に出席してみるとその大切さがあらためて感じられました。
 人が亡くなる時、家族を亡くす悲しみの他に病院でも役所でもたくさんの決断や手続きがあり、とても大変なことです。そんななかで、さらに葬儀の準備をすることはやはり大変なことだと思います。
 私自身が喪主になれば、また思うことは変わってくるのでしょうが、集まって葬儀や法事をお勤めして故人のことを思い出したり、語り合ったりする時間で、死を少しずつでも受け止めていくことが出来るのではないかと思いました。儀式をムダと切り捨てることなく、どういうかたちで勤めるのが良いのかと考えていくことと故人を偲ぶということは、無関係ではないと思います。
 後日、伯母から電話があり、色々手続きなども大変だけれど、お店をがんばっていきたいということを話していました。遠くにいて何の力にもなれないのは申し訳ないけれど、お店をあけようという気持ちでいることや家族で支え合っている様子が感じられて、少しホッとした気持ちになることができました。


   
         
     

   
     湘南組 聞法集会報告    
      昨年十一月十一日に、平塚で開かれた湘南組の聞法集会に行ってお話を聞いてきました。講師は東京の亀有にある蓮光寺の住職をされている本多雅人先生でした。
 本山では二〇一一年につとまりました親鸞聖人の七五〇回御遠忌のテーマは「今、いのちがあなたを生きている」という言葉でした。ちょっと不思議なというかわかりにくい言葉で、当時も難しいこと言うなあと思った覚えがあります。
 その後、御遠忌のテーマをどう受け止めるかという話し合いが全国の組(地域ごとに分けられた大谷派のお寺のグループを組と呼びます)でもたれたそうで、湘南組では「ほんとうの私(うそ)にであう」というサブテーマが決まったそうです。
 今回のお話は、そのサブテーマについてでした。
 先生のお話では、自分が私だと思って生きているけれど、その私は一見正しい思いや日頃の心で生きているだけで、深いところにある本当の私とは言えないという事ではないかと解説して下さいました。
 色々な言葉をひいて、また御自坊での経験を交えて色々お話して下さったのですが、印象に残ったのは「お寺に来て驚いてもらう」という言葉でした。日頃自分の思いに振り回されて、かなわないことを不幸に思って生きている。その思いをやぶらないと本当のことが見えないということでした。あたりまえと思っている事がそうじゃなかったという驚きに出会って、深いところにある本当の自分がわかるということでした。
 私は、教えの多くが言葉の意味としてしかわからないのですが、知ってみてハッとすることというか、表面上しか見ようとしてなかったと思うことがあります。お話をきくことで驚くということが、教えに出会っていくということなのかなあと、思ったことでした。

   
     

   
     仏花を生ける研修会に参加    
      お花についての実践的な講習会ということで、普段のお給仕に生かせればと参加しました。今回の先生のお話はかなり実践的でわかりやすく、普段の仏花に積極的に取り入れていける技術がたくさんありました。
 まずは、基礎の確認として、高さ前後左右を含めたバランスについて図解して下さいました。普段の自分が生けたときのかたちを平面の、しかも正面から見た形しか意識してないということをこの段階で実感しました。実際に生けたところを横から見せてもらったときに、こんなに立体的にできるんだということに驚きました。
 また、目指す形にお花をまとめるために、自由に道具を使用することにも驚きました。通常花を生けるために使うような道具以外にも、結束バンド、ワイヤーなどで工夫して形を作るというのは工作みたいで面白く感じました。荘厳というのは浄土の様子を表しているというのは聞いていたことですが、お花も浄土のジオラマの一部みたいだなと思いました。
 また、仏花と言えば菊など和花のイメージですが、洋花なども自由に用いることが多いそうで、洋花であろうと雑草であろうと和花であろうと花の命に変わりは無いという言葉が印象に残りました。自由に生けることが浄土の様子を表す一部ということと相反しないという部分に、仏花って奥が深いなあと感じました。
   
         
     

   
     横浜別院聖人七五〇回忌御遠忌巡回講座
親鸞と東国-神奈川県を舞台としての活躍
   
      先日厚木市内で催された講座で、筑波大学で日本中世史、仏教史を研究されている今井雅晴先生のお話を聞いてきました。
 テーマは、「親鸞と東国〜神奈川県を舞台としての活躍」でした。
 歴史学者ならではの立場でのお話が聞けて、面白く興味深かったです。
 まず、今現在私たちが持っている在野の聖であり権力者と闘う親鸞聖人のイメージが七百御遠忌のあった昭和三十六年頃に作られたこと。当時の社会背景が学生運動や労働運動が盛んであったことなどお話しされました。
 歴史学が資料を重視する学問である事は聞いていましたが、受取る人間の背景によって、同じ資料でも読み解く内容が変わってくるということは新たな視点でした。
 現代の社会は、家族のありよう一つとっても昭和三十年代のころと大きく変わっていることでしょう。聖人の説かれた言葉や教えの内容は変わらなくとも、受取る私たちの方は変わってきているということは事実なのでしょう。先人がつくった親鸞聖人像に疑問を持ち、今の私たちに届くものを得るには、今を背景に学び直すことは有意義なことだと思いました。
 また中世史の専門家ならではの、当時の平均寿命や言葉の解釈の違いからの読み解きも興味深かったです。例えば、暁と「あけぼの」というのは違うということは、研究者が資料を読み込むことで新たに発見されたのだそうです。新資料が発見されることのみが新発見ではないということや、当時の社会背景を今の常識だけではかってしまうと解釈が違ってくると言うのも面白かったです。
 親鸞聖人が法然上人の元で学んでいた頃の評判やつながりを利用して土地の有力者の力を借りたのではないかという解釈や、神仏を分けて考えている現代人と神仏は一体なのが当然であった中世の違いというのも、面白かったです。
 言い伝えとして、箱根権現(箱根神社の神)のお告げで神主たちが通りがかりの親鸞聖人をもてなしたというものがありますが、背景として箱根神社に権限を持っていた聖覚上人が親鸞聖人と交友があった可能性が高かった事などを話されました。
 言い伝えを事実と証明しようとすることでなく、事実は事実として研究することによって、まだ明らかでない神奈川県内の聖人の足跡が明らかになるのではないかということでした。
 まだ知られていない事実や今を背景とした視点を得ることで、より深く親鸞聖人という人を知り、教えを生かせるのではないでしょうか。
   
     

   
     登戸研究所資料に行ったこと
―旧日本陸軍秘密戦研究所
   
      神奈川県川崎市の施設に見学に行ってきた人から感想を聞いて興味を持ち行ってきました。
 お盆がおわったすぐ後の暑い日で、駅から資料館まで徒歩十分とありましたが、道に迷ったり急な坂を上がったりして、汗だくで二十分ほど歩きました。
 資料館は明治大学の生田キャンパスの敷地内にありました。軍の秘密の研究所で、風船爆弾を作っていたという話を聞いたことがあるくらいで、どんな所なのか興味深く見学してきました。
 スパイ用の消えるインク、偽札の研究など荒唐無稽に思えるものや、毒薬や生物兵器のような恐ろしい研究など、研究の内容はわかっているだけでも数多くありました。風船爆弾は、あんなのんきな外見でも確かに兵器で、人を殺傷していたことを初めて知りました。
 研究所には、近所の人の紹介で勤めていた事務員、工場の工員など、多くの一般人も務めていたそうです。ゆったりした雰囲気の職場という面もあったそうですが、やはり研究所の研究に関することは一切口外してはいけなかったそうです。
 今でも、全部が明らかにならないのは、多くの人に機密を口にしてはいけないというプレッシャーがかかっていたということなのでしょう。
戦後、一九八〇年代になってからの高校生や市民の地道な聞き取り調査で多くのことが証言されたということです。戦争のための宣伝や兵器の研究自体も恐ろしいけれど、解散後も口をつぐまなければならない気持ちや状況をとても恐ろしいことだと感じました。
本や映像でも勉強できると思いますが、実際に残された建物を一部であれ、足を運んで見てきて、本当にあったことなのだと感じられたと思います。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
【住所】神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1
【最寄駅】小田急線「生田駅」下車南口徒歩約十分
【開館時間】水曜〜土曜 十時〜四時

   
     

   
    寺族女性のつどいに参加して    
      二月末頃に、練馬の真宗会館で寺族女性を対象にした研修会が行われました。坊守が参加してお話を伺ってきました。寺族というのは住職の家族のことです。

 江戸時代の女性の旅というテーマをなんとなく面白そうだと思って参加しました。江戸時代の旅行というと、テレビの水戸黄門のイメージくらいしかなくて、なんとなくお話を聞き始めました。ですが、はじめからおもしろくてびっくりしました。とにかく、先生の話しぶりから、江戸の文化と旅のことをとても好きなのが伝わってきました。
 前半の関所の話は、融通のきかなさゆえのおかしみも粋な計らいもありで、まるで落語の世界です。
 たとえば、女性の通行手形ですが、分類にやたら大雑把な所があります。未婚女性は振り袖、既婚者はお歯黒といった具合に分類されていたということですが、実情には合っていなかったそうです。女性は、関所で裸になって髷をほどいて特徴を調べられるという制度が採用された時期もあったそうですが、廃止になった後も町人たちには知られてないことや、わりと普通に賄賂や抜け道が利用されていたのも、具体例があっておもしろかったです。情報の行きわたらなさや関所の融通のきかなさにまつわるドタバタは笑えたけれど、今も人間のすることはさほど変わらないのかもと、思いました。不正がわかれば死罪だそうですが、摘発の例が意外と少ないことにも驚きました。
 後半のきよのさんの旅日記ですが、女性の、しかも人に見せる気のない日記というのが、貴重な資料だということでした。きよのさんは、豪商のおかみさんなので恵まれた例ではあるのでしょうが、やりたいことは全部やっていそうです。寺社仏閣へのお参りもするけれど、船頭さんの脅しも恐れず水路を行くし、遊女をあげてお酒を飲み、昼間の抜け道もお手の物。お小遣い帳は途中でめんどくさくなって止めるところも豪快です。貧しい女性でもお陰参りや抜け参りという手段があったそうなので、誰でも旅ができた自由な雰囲気を感じました。武家の女性はまた違うのかもしれませんが、江戸時代の女性は意外に自由な雰囲気を生きていたような気がしました。封建的な世の中で、制限があって窮屈そうだと思っていたら、個別に見れば自由にしている人もいます。思い込みを捨てて、やりたいことをやってみれば案外何でもできるというのは今も変わらないかもしれません。それはそうとして、どこか行ったことがない場所に旅行したくなりました。それぐらい愉快痛快な旅のお話をうかがうことができました。 
   
     

   
「法然と親鸞展」を見ました。
 上野の国立博物館平成館で開催中の「法然と親鸞〜ゆかりの名宝展」を見てきました。平日のお昼前に行ったのですが、スムーズに前に進めないぐらいの人出でした。
 子どもの幼稚園のお迎えまでに帰らなければいけないので、文字通り駆け足で見ることになりましたが、絵や像も多くて興味深く見ることが出来ました。目当ての前期のみ展示の『阿弥陀二五菩薩来迎図』も無事見られてとても良かったです。来迎図は、想像していたよりもずっと大きくて他の絵よりも何が起こっているのか見やすかったです。中腰になってお迎えに来ている菩薩の姿や遠くに見える浄土などがよく見えました。
 見たかった物は見られましたが、もう一度ゆっくりと見て回りたいなと思いました。
 前期展示はもう終わってしまいましたが、後期展示は2011年十二月四日まで開催されていますので、是非見に行くことをお薦めします。


舞台『法然と親鸞』観覧
 昨年の暮れに、東京の青山劇場に前進座による舞台『法然と親鸞』を見に行きました。
久しぶりの都心だったので、人混みや見慣れない場所に、ちょっと浮き足立ちながら劇場までたどり着きました。
 舞台の内容は、法然上人の子供時代から亡くなるまでと、親鸞聖人の若い日から京都へ帰られる前までのお話でした。
法然上人が子供の頃父と死に別れる時の有名なエピソードをはじめ、親鸞聖人と法然上人のかかわり、流罪のことなどが大変わかりやすく紹介されていました。
 文章で読むと面倒に感じられたり、いまひとつ感じがわからないものですが、映像や舞台は作り手の解釈はあるでしょうが、わかりやすくて印象に残りました。
 また、違った風に映像化や舞台化といった試みがされてもおもしろいでしょうね。


無事に生まれました
 今年の一月二十九日に無事次女、縁花(よりか)が誕生しました。
里帰り出産でしたので坊守が三ヶ月間留守にしていました。お参りにいらっしゃった方にはご迷惑をおかけいたしました。
 おかげさまで、無事に元気な女の子が生まれました。皆様には里帰り中も転送で電話をとった時や、住職を通じて心配していただきました。またお祝いの言葉をいただき、うれしく、ありがたく思っております。
 妊娠中の検診では、「赤ちゃんはちょっと小柄ですね」と言われていたのに、生まれてみると三三四四グラムもある大きな赤ちゃんでびっくりしてしまいました。
 経産婦は予定日より早く生まれるかもときいていたのに一週間すぎても生まれず、とても待ち遠しかったです。そして「明日は入院して薬で痛みをつけて産みましょう」と言われた日の晩に自然に陣痛がきて、しかも安産でした。聞いていた通り、あっというまに陣痛の間隔が短くなって、いきみたくなりました。長女のときも安産だったのですが、陣痛室にいる時間がとても長く感じた覚えがあったので、今回は「えーもう分娩室」という感じで驚きました。
 今は茅ヶ崎に戻って一ヶ月になりました。新メンバーを加えた四人での生活にもなれ、バタバタしつつもみんな元気です。長女のほうは里帰り中にずいぶん成長して口も達者になってきました。少し赤ちゃん返りをしていますが、お姉ちゃんの自覚もあるみたいです。
 二度の出産を思い出して共通しているのは、よく生まれてきてくれたねという事と、とてもうれしかったということです。この気持ちを忘れないで、子どもと一緒に成長したいと思います。

初参りはお寺に行きましょう。


本山の若坊守研修会に参加して
 この四月二四日・二五日に、京都の本山で、若坊守研修会が開かれたので参加してきました。坊守とは、住職の配偶者のことです。
 全国から五十人ほどの若坊守が、勉強のために集ってきました。若坊守同士が会う機会というのは、少ないと思うので貴重な体験だったと思います。基本的には坊守・若坊守共にお寺に留守番して家のことやお寺の仕事をしていることが多いようです。ましてや、小さな子どもがいたりすれば、尚更出かけにくいものです。
 また、何かの機会に顔を会わせても、あまりゆっくり話す機会は無かったりします。この会は保育室つきで、寝るときとご飯のときとお風呂のとき以外は、プロの保育士さんがついていてくれました。日ごろ話し合ったり、お話を聞ける機会が少ない若坊守さんたちには絶好のチャンスだったのでは無いかと思います。
 講義の先生は、渡邊尚子さんという坊守さんでした。家族でお寺に入寺され、三人の娘さんを育てられたお母さんでもあり、そういったことを『お庫裡さん奮闘記』という本に書かれています。事前に住職の母からこの本を借りて読んでいた私は、実は、こんなにすごい人と私は全然違うんだから、お話を聞いたところでどうかなあと思っていました。
 でも、講義を受けてみると案外普通の人で、お話も参考になりました。普通というのは、別に悟っていることも無く、腹も立てるというような意味で、です。
講義の内容は、夫婦や、家族など身近な例での“わたし”という六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)から逃れられない私を一瞬ほどいて、相手を私の思いでなく見られるようにしてくださるのが、ナムアミダブツだということが主でした。そのお話にも、なるほどと思ったのですが、坊守新米のわたしとしては、お寺は仏法を売るお店だという言葉がとても参考になりました。
 私は、文句が多いほうで、私はたまたま住職と結婚しただけなのに、仏法もそんなに信じれてないのに、色々やることもあって嫌になると結構思ってしまいます。でも、お店だと思うなら、掃除や草むしりをしてきれいにしたり、行事をして寺報やハガキを出して来てもらえるよう宣伝したりというのは当たり前です。
 以前本屋につとめていたときは、バイトの立場ながら、売り場や売り方に色々と工夫をこらして、そのことが苦ではありませんでした。本というのはハッキリした私の好きなものだったのでわかりやすかったけれど、仏法というものはわかりにくいものです。あ、いいなと思うときもあれば、全然理解できないと思うときも多いものです。先はながそうですが、とっかかりの一端になるような気がしました。
 そうしたお話のあとは、班別で座談の時間となります。元々お寺の娘さんだった人、私のように在家からお寺に来た人など様々でしたが、自分の悩みや思いを話し合うことが出来ました。
 私の班は、二三歳の妊婦さんから四十代で高校生の子どもをもつお母さんまで幅広く、子育ての話もでたりと打ち解けた雰囲気で話すことが出来ました。夫婦のことや、家族のこともたくさん話したのですが、私が印象に残ったことは、お寺の奥さんということでそれらしい振る舞いや発言をしなくちゃいけないという気持ちと普通の人なのになあという気持ちの間で揺れている人が多いということです。
 古くからあるお寺だったりすれば、尚更、町中の人が顔を知っていたりします。うちは開教の新しいお寺なので、そこまでのプレッシャーはないけれど、そういう気持ちはあるなあと思いました。
 お寺のこともキチンとしていて、勉強もしていて、人間もできててみたいなんじゃないとダメなんじゃないかなあと思うこともあるからです。できるかどうかは別として、なんですけど。
 よく私は、住職がトイレをギリギリまでガマンして帰ったり、ちょっと遠くの法要に行ったとき飲まず食わずで帰ってきたりするのを、コンビニにでも寄ればいいのにと言っていましたが、同じことです。衣を着て、お坊さんだと分かる限りはお坊さんらしくしていたいと思っているようなのです。
 そういうのを在家仏教である真宗で言うのは、見栄なんじゃないかなあと思ったりもしていたのですが、それらしさを世間の人たちが期待しているいうプレッシャーがあるのもまた、事実のようです。
 でも、お寺に住んでいるからって、悟っているわけでも特別なわけでも無いです。ただ、お寺に縁があって仏法を広めるのが仕事だというだけです。
 講義も座談もとても参考になったけれど、自分がどんな坊守になりたいか、なれるかというのはまだまだ難しいことです。でも、今までお話を自分のこととして聞けていなかったんじゃないかなあということにハッとできただけでも良かったなあと思いました。
 次にまたこうした機会があれば、坊守の制度的なことやジェンダーについて勉強しているような人のお話も聞いてみたいなと思っています。

Home
253−0081 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085 浄土真宗大谷派 宗泉寺